バルチック・ジャーニー (4) - バルトの一国リトアニアと、ロシア領の飛地カリーニングラードへ -

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朝、昨日浴びそびれたシャワーをと思ってシャワー室に入ると、いつまで経っても水しか出てこなかった。やはりロシアか…と思ったが、試しに水栓を逆(青い方)に捻るとお湯が出て来た。やはりロシアであった。
昨晩チェックインしたとき、フロントの係氏が勧めて来なかった(面倒だっただけかもしれないとも思う−だんだん偏見じみて来たが)ので、朝食は宿では取らず、少し歩いたカリーニングラード南駅前のパン屋のような店で食べた。その前に、空港行きのバスの時間を確認して、タイムリミットを設定する。
詳しい説明はWikipediaなどに譲るとして、カリーニングラードは、かつてケーニヒスベルクと呼ばれ、第二次大戦での激戦を経てソ連に併合された後、軍事的重要性から閉鎖都市とされた。そしてリトアニアの独立によって本土とは切り離され、飛地となって現在に至っている。
「常に歴史のダイナミズムを感じさせる街」―ガイドブックの紹介がまさにぴったりと言える。
街を囲うように作られたプロイセン時代の城門のうち、いくつかが残存している。そのうちの一つフリートレンドル門は、修復などは特段されていないようで、保存状態は気になるのだが、かえって重厚な雰囲気を醸している。また焦げ茶色のカリーニングラード南駅も、城門をイメージして造られたかのように見える。
そこからプレゴリヤ川沿いを歩くと、川に面して洒落た建物やカフェが並ぶ一角があり、やがて中洲に建てられた大聖堂が見えた。第二次大戦末期の空爆で破壊されたままになっていたものが、ドイツの協力で修復されたものだという。かの有名な大哲学者カントが葬られた場所でもあり、聖堂の脇に墓碑がある。
一方、ケーニヒスベルク城は第二次大戦で大きな被害を受けたあと、完全に破壊され、跡地には「ソビエトの家」なるビジネスセンターが建てられた。長い時間を経て完成に至ったものの、実際には使用されておらず、中に立ち入ることもできない。街の真ん中に聳えるこの巨大な廃墟を、人々はどう見ているのだろうか。
かつての「王の通り」、フルンゼ通りを歩くと「王の門」がある。王とはプロイセン王のことで、そもそもケーニヒスベルクという地名自体がドイツ語で「王の山」という意味であり、かつて重要な地位を占めていた場所であることが伺える。
そこからトロリーバスでケーニヒスベルク北駅付近、勝利広場へやって来た。広場は多くの人で賑わっていた。それもそのはず、今日5月9日は独ソ戦が終結した日、ロシアの戦勝記念日なのだ。その日をこの街で迎えるとは、奇縁と言わざるを得ない。
そこから南駅の方へ向かって歩き、かつてナチス・ドイツ軍が使用した、地下壕博物館を訪れた。ドイツ軍司令官が降伏を決断した部屋が残り、破壊され廃墟と化した街の写真やジオラマがいくつも展示され、その生々しさは見応えがあった。しかし一方で、明らかに「いかにしてソ連はドイツを撃破したか」という趣向で構成されていて、プロパガンダ的な色彩が強く、正直最後の方はややうんざりした。
空港行きのバスの発車まで少し時間があったので、再び大聖堂に戻り、中を見学することにした。内部には、ケーニヒスベルク時代の町を描いた絵画やジオラマがあった。ケーニヒスベルク時代の趣を感じるなら、地下壕よりもこちらが断然いい。
ホールでは、パイプオルガンの演奏が行われていて、皆静かに聞き入っていた。荘厳な響きだ。時間がなかったので早々と退室したのだが、いつかも自分も何かの機会に聴衆として参加してみようかと思った。自分は全く信心深い人間ではないが、音色に身を委ねることで、何か感じるものがあるのかもしれない。
南駅前のバスターミナルまでは路線バスで戻り、時間通りやって来た空港行きのバスに乗った。空港は20km以上遠くにあって、バスで50分ほどかかった。ターミナルビルは改装工事の真っ最中のようで、工事が終わって綺麗になった部分と、骨組みが剥き出しの未完成の部分とがごちゃ混ぜになっていて、妙な見栄えだった。
バスと飛行機の時間とが上手く合わなかったので、早いバスに乗って空港で時間を潰すこととなった。ロビーのカフェで昼食を、自分はビールも頼む。搭乗手続きを待つ間、Y氏と二人で今回の旅の総括をした。似たような趣向の持ち主同士、いい旅だったと思う。

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