またここへやって来た (1) - シビックを駆って関西方面、紀伊半島へ -

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仕事を終えた後の深夜に東京を出た。
東名の下り線はお盆ということもあってか、夜10時過ぎにも関わらず車の量が多かった。そして遠方へ向かうトラックも多く、速度が違う車の中で運転は少なからず緊張した。
日付が変わった頃、焼津インターで一度降り、名前の通り駅近くにある「焼津駅前健康センター」で仮眠を取った。0時過ぎに入って5時前に出れば、たったの\1,000で済む。
再び東名に乗って浜松西インターへ、そしてR1→R23→R259を経由して、渥美半島の先端、伊良湖岬へとやって来た。7:50発の鳥羽行きフェリー始発を狙っていたが、既に乗船を待つ車が列を作っており、8:40発の船に乗ることになった。
30分ほど前に着いたのだが、その時点で8:40発船すら、十数台の車が列をなしていたので、あと1時間は早く来ないと始発には乗れなかったのだろうが、それはさすがに無理だった。
出発を待つ間、岬の辺りを少し歩いた。対岸に伊勢の陸影、そしてその向こうに紀伊半島の山々も見える。
伊良湖岬と鳥羽とを結ぶ伊勢湾フェリーは、去年母を連れて鳥羽に行ったときの帰り道に乗ったばかりだった。加えて焼津であまり良く寝られなかったので、少しでも睡眠不足を解消しようと思い、乗船早々客室の片隅に横たわった。
1時間弱で鳥羽に到着した。車ごと下船して、海沿いに走るパールロードを通って志摩方面へ向かった。途中にある箱田山園地からは、鳥羽の海の景色が一望できた。伊勢志摩の海は綺麗で、つい歩みを止めそうになるが、今回はここで寄り道をするわけにはいかない。
国道260号線で、伊勢から紀伊へ抜けた。地図を見ると海沿いを走るように見えるが、実際は海が見える区間は少なく、ひたすら前を向いて走るだけだった。しかも意外と距離が長い。ツーリングマップル関西の「単調で長い」という説明の意味が分かった。
紀伊長島に到着すると、既に昼を回っていた。食事をと思って、すぐに目に入った道の駅「紀伊長島マンボウ」に入った。
名前の通り、ここではマンボウが食べられる。このあたりにはマンボウを食す慣習があるという。レストランでフライを頼むと、歯応えがあって魚っぽさがない。特に癖もなく、鶏肉に近いような感じだった。
予想より時間が押していたので、紀伊長島から尾鷲までは紀勢自動車道に乗った。この区間は無料である。道路の整備は目覚ましく、たまに遠出すると、今まで知らなかったようなところまで高規格の道路ができていることが良くある。
尾鷲と言えば、日本で最も雨が多い地域として、かつて小学校の社会科の授業で名前を覚えたところだ。そんなことを思い返しつつ、終点の尾鷲北インターで降りると、偶然ながら小雨がぱらつき始めた。
国道42号線に出て最初に見つけたスタンドで給油した。燃費は14.68km/l、遠出すればこのくらいは普通である。
そのまま南下していくが、ほとんど全ての車が無料の熊野尾鷲道路に入ってしまい、従来の42号線へ向かう車は極僅かだった。新しい道ができるまではメインルートとして機能していただけに、道路の規格もそれなりで、整備も行き届いていた。それだけに、車の往来がほとんどないがらんとした雰囲気には一層の寂しさを感じた。
尾鷲市から熊野市に入って国道309号線に折れ、すぐに国道169号線に左折した。七色ダムに沿う部分の前後は林道のような趣で、いよいよ紀伊半島の奥に入り始めたかと感じたが、こんなものはまだまだ序の口だったことを3時間ほど後に思い知ることになる。
県境を知らせる標識はなかったと思うが、走っているうちに和歌山県に入っていた。47都道府県の中で唯一(ほぼ)未踏の地、それが和歌山だった。ほぼと言った理由は後で書くが、ともあれ個人的に記念すべき第一歩は実に呆気なく、むしろ気付かないうちに踏み出されていた。
その和歌山県、東牟婁郡北山村は、周囲が奈良県と三重県に囲まれている。つまり飛地である。全国で唯一の飛地の村、というより自治体である。
国道169号線は北山村の役場などがある中心街を抜けると、途端に2車線の整備された道路に姿を変えた。歴史的経緯から新宮との結び付きが強く、それがゆえに和歌山県に編入されたというが、距離が近いはずの熊野からの道のりより、新宮へ続く道の方が格段に良く整備されていることからも、和歌山に属している背景と名残が窺えた。
小松トンネルを抜けると奈良県、吉野郡十津川村に入る。奈良の有名な部分は県の北部の一帯に過ぎず、奈良県自体は紀伊半島の南の方まで広がっていて、そして県全体の5分の1の面積を占める、日本最大の村がこの十津川である。
国道から林道に折れると十津川の中心地に辿り着く。十津川には温泉が大きく2つあり、村役場付近の温泉地と、南部の十津川温泉である。
今回は温泉地の「滝の湯」と、十津川温泉の「庵の湯」に入浴した。前者は文字通り滝が眺められる露天風呂があり、硫黄の臭いが漂う。後者は露天こそないものの、十津川を眺められるよう大きなガラスが張られていて、肌当たりの良いナトリウム炭酸水素塩泉が湧いていた。
いずれも源泉かけ流しの温泉だった。かけ流しは決して珍しいものではないが、十津川は日本で初めて「源泉かけ流し宣言」を行ったところで、その自信に違わぬと思える湯だった。成分が濃いのもそうだし、源泉の温度が高いのも素晴らしい。源泉の温度は実力に比例すると勝手に思っているからだ。
十津川には、急峻な山の中にある僅かな平坦地に人々が住んでおり、それがゆえに自然災害の影響も受けやすい。車を走らせていると、その部分だけを剃り込んだかのように山肌が露呈している土砂崩れの跡を何度も見つけ、新宮へと向かう国道168号線は、前月に襲った台風の影響でこのときも通行止めになっていた。
そんな紀伊の山々の更に奥地へ進んでいく。国道425号線、紀伊半島を尾鷲から御坊へ横断する道だが、国道をもじって「酷道」、それも通な人々の間では「日本三大酷道」の一つに数えられる。
台風の影響で、十津川村内の一部が損壊して通行止めになっていたのだが、まさにこの日に復旧したらしい。そういうわけで、迂回路を通ることなくアプローチすることができた。
この日の時点で、三重・奈良県境は相変わらず通行止めだったので尾鷲からの全線走破は諦めていたが、これから足を踏み入れる龍神までの間こそが425号線のハイライトと聞いていたので、あまり落胆はしていなかった。
425号線に折れると、いきなり「転落事故多発」の看板が出迎え、車1台が通れる程度の幅の道が延々と続く。カーブも多く、スピードは上がらない。とはいえ沿道には集落がいくつか存在し、村が運営するバスも走っていて、少なからず人の営みはある。
十津川側最後の集落、迫西川(せいにしがわ)には「十津川村」と書かれたバスが停まっていた。このバスが沿道の集落と村の中心を結んでいるわけだが、小型とはいえ、この道でこれと擦れ違うのは一苦労だろう…と思った。
そしてその先に通学路の標識があった。実際、この近くに迫西川小学校という学校がある。あくまで休校という扱いとのことだが、再び開校することは永遠にないだろう。
しかしこの山奥の地にも、かつては学校があるほどの賑わいがあったのだ。
少し行くと峠のサミットであり、県境でもある牛廻越に辿り着いた。十津川温泉からここまで約30km、時間にして1時間を要した。
再び和歌山に入ったが、奈良側とは違ってここから龍神までの約20km、集落はおろか人家すら一切存在しない。そのせいか、道路の状態も奈良県側より悪く、ところどころに路肩が決壊した部分、土砂崩れを辛うじて車が走れる程度に後始末した部分が見て取れた。やはりスピードは上がらず、路面に障害物がないか、注意深くアクセルを開けていく。
そして沿道には「転落」「死亡」と書かれた看板がいくつも掲げられ、物々しい雰囲気が漂っていた。
これが三大酷道の真髄であるらしい。
総じてこんな道なので、交通量もほとんど無かったが、終盤でガードレールのない部分での擦れ違いを余儀なくされ、このときばかりは車を降り、脱輪しないかを目視で確認した。相手側は品川ナンバーのアルファードで、家族連れのようだった。私のように酔狂で走りに来たのだったらまだしも、カーナビで案内されるがままに迷い込んだのだとしたら気の毒だ。地図上の最短ルートが最良の道とは限らない。
牛廻越から約1時間、どうにか暗くなり切る前に龍神に辿り着き、「龍神温泉元湯別館」にチェックインした。歩ける範囲に店も食事ができるところもないと聞いていたので、十津川で買っておいたカップ麺と、自販機のビールを数本平らげて早々に床に就いた。
せっかくの温泉も、明日の朝でいいと思ってしまった。焼津ではあまり休めなかったし、十津川で温泉を満喫できたし、何より最後の酷道ハイクが体力と気力を完全にゼロにした。

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