またここへやって来た (3) - シビックを駆って関西方面、紀伊半島へ -

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目覚ましなしに7時に目が覚めた。すっかり体力も回復し、早く走りたいと思った。いいテンションだった。
土日は朝市が立つらしいが、この日は金曜日で、昨晩同様に人影もまばらだった。静かな中心街を抜けて、昨日訪れられなかった那智山を目指した。
ワインディングを小気味よく登っていくと、右手に那智の滝が見えた。朝早い時間で交通量も少なかったので、滝をバックに車を止められ、いい一枚が撮れた。
駐車場に車を止め、参道を登るとそこに熊野三山の最後の一つ、熊野那智大社がある。古道から本宮、速玉を経たここが熊野詣の終着点、完結の地である。
肝心の古道歩きを端折っておいて何をと思わないことはないが、手段はさておき、回るところを回ってここを訪れた達成感に負い目はなかった。
そして、いつか環境に余裕ができたとき、自らの足で再び那智に辿り着くことができればいいとも思う。
その横に青岸渡寺がある。神道のみならず、仏教においても那智山は特別な場所であり、宗教を超えて信仰の対象となっているというわけだ。
そして滝の前には飛瀧神社があり、滝に面して鳥居が立っている。ここに社殿は無い。つまり、神様は滝そのものである。
昨日の「つぼ湯」も含めて、この地のあらゆるものに、この地が持つ神秘さを感じずには居られなかった。熊野が古くから信仰の対象とされたのは、都市から遠く離れた場所だとか、豊かな自然が残っているからだとか、そういった地理的、地学的な理由だけではない何かが働いている気がする。
そのまま那智山スカイラインを走って沿岸部に下り、紀伊勝浦の隣町の太地町を訪れた。
決して珍しくない小さな漁業の町といった趣だが、伝統的に行われているイルカ漁がとある映画で槍玉に上げられたりし、良くない意味で世界的な知名度を誇る場所になってしまった。
私自身、イルカ漁の是非について強く賛成、あるいは反対といった意見は持っていないが、この地で育まれた独特の文化を、部外者からとやかく言われる筋合いはあるまい。一方で我々も、世界中のあらゆる文化を、例え奇特に映るものであったとしても、その地に根付いたものとして許容すべきだろうと思う。
そんな背景で、観光資源として大々的に売り出すのが憚られるのか、名物の鯨料理も扱う店は驚くほど少なかった。その名も「くじら屋」という店に入ったが、先客はゼロだった。
\3,980という値段を見て少し逡巡したあと、ありとあらゆる料理が全部食べられるランチセットを頼んだ。刺身も汁物も初めて食べるもので、どれも美味かったが、一番良かったのは竜田揚げだった。小学校の給食で食して以来だ。
更に国道42号線を南へ走った。道は太平洋に沿って伸び、澄んだ空と海の青がこの季節を彩り、本州最南の町、串本町の道の駅「くしもと橋杭岩」からは岩礁の奇景が眼前に見えた。
市街地を抜け、潮岬を目指したが、その前に橋で結ばれた紀伊大島に立ち寄った。島を左右に貫く道を走り抜けると、道の終点から樫野埼灯台まで「エルトゥールル通り」という遊歩道が伸び、遭難慰霊碑やトルコ記念館、トルコ人がドルドンマ(トルコ名物の伸びるアイス)を売っている店がある。
エルトゥールルとは1890年にこの付近で座礁、沈没したトルコ軍艦の名で、生存した乗組員を大島の住民が献身的に看護したことに対して、トルコの人々が日本に好感を抱いたと伝えられている。
そしてその「ご恩返し」として時のトルコ政府が、戦時下のテヘランからトルコ航空機で在留邦人を救出することを決めたことを知ったとき、心底搏たれたものだった。
いずれも、教える人も語り継ぐ人も少ないエピソードだと思う。トルコという国自体、日本人にとってはまだ馴染みの薄い国であろうし、串本も都市圏からは遠く離れている。
ひっそりと、されども強固な日土両国の関わりが、ここには根付いている。
そして本州最南端、潮岬に辿り着いた。
海に面した一帯に芝生が広がり、そこに「本州最南端」の碑がある。沖合を航行する船がしばしば見えるだけで、南方の洋上に視界を遮るものは何もない。
いつも旅にゴールはない、旅の終わりは家に帰ったときだと思っているのだが、敢えて最終目標を設けるとしたら、今回はここだった。
島国である日本には、様々な「最端」がある。しかしどこであれ、端と名の付くところを極めるのは楽しく、達成感がある。行き着くところまで行き着いたという実感が好きだからだ。
本州という括りで言えば、北端の大間崎に続いて2箇所目である。西端の毘沙ノ鼻を九州在住時に訪れなかったのが今になって惜しい。東端のトドヶ崎は、少し踏破に難儀しそうだ。
日本も本当に広い。まだまだ旅は終わらない。
国道42号線に戻り、紀伊半島の沿岸部を走るJR紀勢本線の、串本町の西端に位置する和深(わぶか)という駅の前で車を止めた。
中学1年生のときのことだ。先輩とともに初めて泊まりがけの遠征に出かけ、新大阪から新宮行きの夜行列車、通称「新宮夜行」に乗った。空いた車内で、急行型車両のボックスシートに身体をLの字にして収まり、眠りに就いた。
そのあと「わぶか、わぶかです」という放送で目を覚まし、やがて列車が静かに停止し、ドアが開く音が聞こえた。時刻は午前3時半過ぎだったはずで、実際に窓の外は暗闇に包まれ、駅名標の小さな灯りの下で「和深」という名前が僅かに見えただけだった。
その後新宮で列車を乗り換え、名古屋方面へ向かったのだが、寝たり起きたりを繰り返していたし、デジカメが普及していない時代だったから、少ない手持ちのフィルムを惜しんであまり写真を撮らなかった。旅全体のことを言えば、記憶も記録も定かでない。
ただ和深という名は、今になっても頭に刻み込まれていた。
それから18年近くの時を経て、再びこの駅を訪れた。小さな無人の駅舎を通り抜けると、すぐ眼前に海が見えた。こんなに海が近かったのかと思った。人気のない駅の佇まいも、あの灯りの下で見た駅名標もあのときと変わってはいまい。唯一違ったのはその海の眺めだった。
もはや良く覚えていないとはいえ、あの旅で楽しさを知ったのは間違いない。見知らぬ土地の景色、文化、空気を五感で味わうのが好きになった。そのあと日本の鉄路の多くを踏破し、宗谷岬にも与那国島にも小笠原にも行った。海外にも大学に入ってからは目を向け始め、物見遊山の旅だけではなく、仕事でも海外と関わることを志した。
今の自分が出来上がったきっかけの一つだったと思う。しかしそれ以来、和歌山の土を踏むことはなかった。様々な場所に行きたいと思ううちに、和歌山は一度行ったからと後回しにし続けた。そして気付けば、ろくに見たことのない最後の場所になっていた。
方々を巡り廻って、最後にまたここへやって来た。それは何かの因果かもしれない。
更に42号線を走り、白浜で311号線へ折れ、更に県道を経由して紀伊半島を縦に貫く道の一つ、国道371号線に出た。途中、初日に宿を取った龍神温泉の横を通り抜けた。
龍神から先は高野龍神スカイラインという名がついていて、かつて有料道路だった区間である。スカイラインと名はついているが、途中の護摩壇山まではあまり景色は開けない。ただ交通量は少なく、運転が楽しいワインディングではあった。
護摩壇山の道の駅には展望塔があり、どうにか開館時間中に辿り着けた。エレベーターを上がったところにある展望台からは、周囲の景色を360度見渡すことができた。稜線を削ってこの道ができたことも良く分かった。
この日は一転、日本海側の兵庫県豊岡に宿を取っていた。出発前にナビで経路を調べると、距離は282km、所要時間5時間50分と出た。
まもなく日没、あとはひたすら前を向いて走るだけだ。
スカイラインは名前の通り高野山で終わる。時間があれば金剛峯寺も立ち寄ってみたいところだったが、今回はパスした。ここは列車も通っているし、比較的来やすい場所であろう。
高野山から橋本までの371号線は、ところどころ車1台通るのがやっとの幅しかないような道だったが、425号線と比べれば大して驚きもしなかった。
橋本から先はナビに導かれるがままに走り、南阪奈道の葛城インターから高速に乗った。関西の高速道路網は全く分からず、南阪奈道→阪和道→近畿道→中国道というルートを指示通りに走った。Uターンラッシュが始まっており、西宮付近の上り線は酷く混んでいて、これが聞いたことのある中国道の渋滞の名所かと思った。
そのあと舞鶴若狭道、北近畿豊岡道を通ったが、いずれも聞き覚えのない道だった。道路整備の速さは凄まじい。
途中西紀SAで夕食をとっただけで、豊岡駅前の宿には22時過ぎに辿り着けた。

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