もう一度、北へ (2) - ロシア・サハリン渡航記 -

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朝、精算を済ませているときに旅館のご主人に行先を尋ねられた。サハリンに行くのだというと、それならフェリーターミナルまで送りましょうと言われ、寄りたいところがありますからと辞退すると、ならばせめてと言って自販機で飲み物を買って渡してくれた。07年の冬、市内の別の民宿に泊まったときには「遠いところから来てもらいましたから!」と暖房費を負けてもらったのを思い出した。旅人に優しいというか、そういう土地柄なのかもしれない。
港に向かう道すがら、稚内駅に再び立ち寄った。多くの旅人を迎えた最北の駅舎は、真新しい再開発ビルの陰にすっかり隠れてしまい、来年春にはとうとう建て替えられるそうだ。朝一の札幌行き特急列車が行ってしまい、人影のなくなった待合室でそば屋が営業していた。朝食を食べながら話を聞くと、建て替え後も営業を続けられるかどうかはまだ分からないという。
9年前の冬、「日本最北端 稚内驛」の標を見たいがために夜行列車で降り立ち、今日と同じようにかけそばで朝食を済ませた。最果てのこの駅にたどり着いたときの感動は忘れ得ず、駅自体が思い出の場所と言ってもいい。そんな存在が姿を変えてしまうことは、時代の流れとはいえやはり寂しいものがある。思惑通りに地域経済の起爆剤になると同時に、願わくば新しい駅もまた、旅情に溢れた場所になることを願ってやまない。

駅周辺一帯は再開発が進められ、フェリーターミナルの場所も記憶とは変わっていた。利尻・礼文に向かう船着場と向かい合わせのところに、平屋で簡素な国際ターミナルがある。待合室にいたのは、日本人とロシア人とが半々くらいだった。
9時過ぎに乗船が始まり、簡単な出国審査を通る。船に乗ると弁当が配られたが、日本の仕出し弁当だった。これを受け取って、お馴染みの雑魚寝の2等船室の一角を陣取った。同じロシア行きの航路でも、シベリア行きのときに乗った「ルーシ」とは雰囲気が全く違う。あちらは薄暗い船内にロシア人ばかりで、乗ってすぐに心細さを感じたのだが、今回は国内の船旅のように気軽で気楽だ。
サハリン・コルサコフ行き「アインス宗谷」は、定刻の10時きっかりに出航した。稚内の街が遠ざかり、右手には宗谷岬、後方には利尻富士を望む。昨日とは打って変わって晴天に恵まれ、絶好の船旅日和だったが、祖国が遠ざかっていく様を見るにつけ、一抹の寂しさを禁じ得なかった。しかしそんな感傷に浸ることもまた、船旅ならではの醍醐味だと思う。
行く先はかつて樺太と呼ばれた場所。多くの人々が稚内の港から彼の地へ渡ったという。そこには様々な理由があったに違いない。人々はどんな思いで北を目指したのだろう。

デッキで海風に当たりながら免税のビールを飲んでいると、不意に「一人旅ですか」と声をかけられた。稚内市内にお住まいのFさんという方で、ユジノサハリンスクの知人を訪ねるところだといい、10回ほどサハリンに渡ったことがあるという。他愛もない話を話しているうちに、現地で夕食でもどうですかという話になった。どうせ行く当てもなかったし、何より心強いので是非お願いしたいと言った。
船には「遺族会」という名札をつけた人が何十人か乗っていた。というか日本人客のほとんどはそれらの方々で、私のような旅行者はFさんを含めても3,4人しか見かけなかった。
何人かの方に声をかけてみた。旭川在住という方は、叔父が樺太で戦死し、墓も骨もないけれどもその事実だけを頼りにサハリンに行くと言っていた。また樺太に生まれ、本土に渡ってから実に60年ぶりに生まれ故郷を訪ねるのだという人もいた。生家があった場所は沿岸地域で、今は許可がないと入れないという話もしてくれた。
戦後65年。互いの国が互いにケリを付けようと急ぐ一方で、個人レベルでの過去の清算はまだまだ済んでいないのだと知る。

サハリンの姿はすぐに見ることができるが、コルサコフはまだ遠い。宗谷岬からサハリンの最南端まではわずか48kmしかないが、それは南に向かって突き出した半島の先端に過ぎず、コルサコフはその付け根にあるからだ。
稚内から約5時間、延々と島影を見ながらの航海を経て、船はコルサコフの港に入港した。日本領時代は大泊と呼ばれた昔からの港町だが、丘に建つコンクリート造りの民家、荒涼とした雰囲気、そして不思議と威圧的に見える文字…それは明らかに異国、異文化の景観で、ここは間違いなくヨーロッパ、それもロシアなのだと実感した。
船が着いた桟橋から入管まではバスに乗せられるが、1台のバスのピストン輸送なので少し待たされた。更に入管でも列が遅々延々と進まず、下船してから入管を通り過ぎるまで約1時間を要した。そこで旅行業者が手配した朝鮮系の女性ドライバーが待っていて、日本語で案内してくれた。ここで両替をするかと聞かれたが、ホテルのフロントですればいい(シベリアのときはそうした)と思った私はそれを固辞した。しかしこれは後ほど、判断ミスだったと悟ることになる。
日本の中古車である右ハンドルの車でユジノサハリンスクへ向かう。ここからは同行者がいて、同じ業者を利用した日本人と相乗りで、旅費をいくらか値引いてもらった。彼(Y君)は大学卒業を来春に控え、京都からバスと列車で稚内に辿り着き、そしてサハリンに来たという。それもこれが初海外だとか。

コルサコフからユジノサハリンスクへの道は高速道路のような趣で、全くもって快調だった。しかし日本のように随所で警察がネズミ捕りをしていて、心得ているらしいドライバーはほどほどのスピードを保っていた。日本との時差は2時間、現地時間では既に19時近かったが、太陽はようやく沈みかけた頃で違和感を覚えた。もっとも北海道と経度に違いはないから、このくらいの時間でも現地にとっては「夕方」であるに違いない。
コルサコフから約1時間、にわかに建物と車が増え始め、ユジノサハリンスクの駅前に到着した。夕食の話をして誘ったものの、彼は自分のホテルの前で降りていった。私のホテルもその目と鼻の先、駅舎の並びにあって、一足先に到着していたFさんとそのお知り合いのロシア人、そしてもうお一方日本人で、ユジノサハリンスクの大学に在籍されている方との3名で出迎えてくれた。
ドライバーにチェックインを手伝ってもらい、部屋に大きな荷物を置いて外出する。そしてフロントで両替を頼むが、不可とのこと。初っ端から無一文になってしまったのだが、Fさんに気にしなくていいからと言われ甘えることにした。
郊外のアパートに住むセルゲイさんの自宅に案内され、家庭料理を堪能し、たらふくビールとウォッカを飲んだ。言葉が分からないのでコミュニケーションは通訳してもらわないと取れないのだが、そんな見ず知らずの私まで家に上げてくれ、食事を振る舞ってもらえたことは感動以外の何物でもなかった。
一文無しの私は帰りのタクシー代まで持ってもらった。感謝。

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