もう一度、北へ (5) - ロシア・サハリン渡航記 -

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目覚ましに頼ることなく、午前2時に目が覚めた。正確には寒くて起きてしまったのだが。
部屋の鍵は部屋に残して、荷物をまとめて出発する。出口の扉も施錠されていたが、勝手に開けた。どうしようもあるまい。
駅までの道のりは人家も街灯もまばらで、持参を勧められた懐中電灯が実に役立った。外は室内の何倍にも増して寒く震えるほどだったが、雲一つない夜空は満面に星を湛えていて、冷たく澄み切った空気がそれを一層映えさせていた。
下見の甲斐もあり、迷うことなく駅に到着。窓口は閉まっていたものの、幸い待合室は開いていた。本当に列車が来るのか不安だったが、乗客が次々とやって来たので間違いあるまいと安心した。
04:00頃突然アナウンスが入り、一斉に動き出した乗客につられて自分も移動するが、列車が来る気配はあってもホームになかなか入ってこない。不思議に思っていると、乗客たちはその隣の線路に停まっていた列車に、手前側のホームに面した線路を跨いで地面から直接乗り込んでいた。しかもこの列車は客貨混合列車で、待合室のある最後尾付近からは貨物列車にしか見えなかったので、これが目当ての04:20発ユジノサハリンスク行き968列車だとは思いもよらなかったわけだ。

列車は時間通りに動き出した。座席車と寝台車が連結され、私は寝台車に案内された。寝具はきちんと備え付けられ、シーツも貸してもらえた。問題はといえば非常灯のような灯りしか点いておらず薄暗いことだったが、前方の座席車も同じだったので、そういうものらしい。
夜明けまでまだ時間がある。せっかくの寝台なので休もうと思ったが、今度はあまりの寒さで、熟睡できないまま夜明けを迎えた。暖房が壊れているのか?と思ったが、照明同様この車両に限ったことではないらしく、どうやらこのくらいの寒さでは暖房など使わないということのなのだろう。
時刻は7時前。かつて日本最北端の駅で、北緯50度線のすぐ南に位置するポペジノ(古屯)駅に到着した。かつての国境を通過したわけだが、しかし実際は相変わらず鬱蒼とした森の中を延々と走る中で何ら変わり映えもしなかった。そもそも緯度という人為的な尺度でできた境界に地理的、地形的な根拠などはないのだろうから、当然と言えば当然ではあるが。
それでも、そんな誰もが見向きもせずに通り過ぎる退屈な車窓に見入ったのは、島国に生まれ育った人間ならではの、目に見える境界線に対して感じるものがあるからなのだと思う。
後で調べたところでは、国境があったことを示すモニュメントが存在するらしい。いつか訪れてみたいものだ。

しばらく毛布に包まっていたが、室温はちっとも上がらなかった。たまらず給湯器に走ったが、寝台車の給湯器の水温は70度くらいで中途半端だったので、熱湯が沸いていた座席車の給湯器を使って、昨日ノグリキで買ったカップ麺を作り、ティーバッグの緑茶を飲んだ。これでかなり身体が温まった。
09:09、ポロナイスクに到着。かつて敷香(しすか)と呼ばれたあたりで、敷香町は国境までを含む広い町だったようだ。南樺太の北端、異国に接する都市として特に軍事面で重要視され、大戦末期にはソ連が真っ先に侵攻し、激戦が繰り広げられたと聞く。
ここで列車は41分間停車する。カメラを片手に駅舎、駅前の風景を撮り、更にいろいろな光景を写真に収めようとホームを歩き回っていると、鉄道関係者と思しき2人組が寄って来て、パスポートを見せろと言われた。マズいなと思いながら素直に差し出すと、いっときの間の後、policeと英語で言われた。警察、一瞬背筋が凍りついた。
駅舎内の詰所に同行を求められ、警察官の前に突き出された。ロシア語で何やら質問されるが何のことだか分からず、辛うじてгде(どこ)という疑問詞だけ聞き覚えがあったので、行先を尋ねられているのだと勝手に解釈、列車のチケットを見せて指でユジノサハリンスクからノグリキ、そこからティモフスク、んでもって次は!と説明を試みた。すると納得したのか埒が明かないと思われたのか、ともかく無事解放されたのだった。
さっきの人に付き添われて列車に乗り込むと、彼は「大人しくしてろ」というような素振りを見せて去って行った。

ティモフスクから約5時間、ここまででも濃密な旅だったが、先はまだまだ長い。むしろサハリン鉄道のハイライトはここから先、ポロナイスクより南と言っていいと思う。
山の中を走っていた線路が、ここからは一転してオホーツク海に沿うように敷かれているのだ。この海沿いの鉄路は、ところどころ遠ざかったり、あるいは海岸線ギリギリまで近付いたりを繰り返しながら、目指すユジノサハリンスクの手前まで続いている。
それを楽しむには当然海側に陣取るのが良いが、山側の景色もまた広大な湿原があったり、大小さまざまな草木が生い茂る原野が山々との間に広がっていたりと、野趣に富んでいて見応えがある。日本のようにこまめではないが、およそ10分から30分おきに大小様々な駅に停まり、日本の漁師町のような趣の集落が広がっていたり、誰がこんな駅を使うのか?と疑ってしまうような、いわゆる秘境駅があったり、駅の周りの表情もそれぞれ違っている。景色が変わり、あるいは列車が停まったり動き出すたびに左右目が移ろぎ、飽きさせない。
こんなことだから、山側に設けられたコンパートメントから出たり入ったりを繰り返していたので、ポロナイスクから乗って来た同室の赤子連れの女性には迷惑をかけてしまったかもしれない。しかも部屋に留まっている間はこれまでの旅の記録をノートに綴っていたので、一心不乱に見覚えのない文字を書き続ける異国人の姿は気味悪くさえ映ったかもしれない。
その女性は私同様、ユジノサハリンスクまで乗り通した。それまで一言も会話を交わさなかったが、最後に女性が荷物をまとめるのに頼まれて、赤ん坊を抱いたのが唯一のコミュニケーションだった。

こうしてティモフスクから14時間もの汽車旅は、あっという間に終わりを告げた。余韻に浸りたいところだったが、あまりウロウロしているとまた不審者扱いされかねないと思い、そそくさと駅を出た。ちょっとしたトラウマになってしまった。
ユジノサハリンスクに到着したのは18:16。しかし空は明るく、まだ早い夕方の雰囲気だ。宿は初日同様「ユーラシア」。2日目に詳しく書かなかったが、駅舎の1軒隣に建ち駅前広場に面した、非常に便の良いホテルだ。鉄道官舎を改装したホテルだといい、部屋も綺麗でお湯もきちんと出るし、更にテレビではNHKのBS放送が映る。日本語は通じないが、エレベーター近くの貼り紙に日本語が書いてあったところを見ると、日本人の宿泊客も多いのだろう。
夕食を買いに市場へ出かけたら、19時で終わっていた。この街はたいていの店が18時か19時で閉まるらしい。結局宿の目の前にあるコンビニのような店でカップ麺と大きなローストチキン、それにロシアのビール、バルティカを2本買った。部屋にはティファールのような湯沸かしポットとミネラルウォーターがあって、それでカップ麺を作り、その蓋の上の熱でチキンをお情け程度に少し温めてみた。
食事を済ませ、ビールを飲みながらNHKの野球中継を見る。普段は見向きもしないテレビも、異国で見る日本語放送というだけで興味が何倍にも湧くから不思議だ。たかが1週間の海外渡航で深刻な問題になるはずもないが、長く海外にいるうちに「日本語に飢える」という人の感覚が分かるような気がした。ホームシックならぬ、ランゲージシックとでもいうのだろうか。
不意に眠気が襲ってきて、21時頃には就寝した。思えば2時から活動していたのだから、無理もない。

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