もう一度、北へ (3) - ロシア・サハリン渡航記 -

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ユジノサハリンスクはかつて豊原と呼ばれ、日本統治時代から樺太の中心都市として栄えた。碁盤の目状に造られた道はその当時からの名残で、そんな日本時代の面影を探りながら歩いてみることにした。
今夜の列車に乗るまで大きな荷物を預かってもらい、ホテル指定の近所のカフェで朝食を済ませる。そのあと両替のために銀行へ向かった。日本の領事館が入っているビルの1階にあって、かつては青森のみちのく銀行の支店が入っていて日本語も使えたらしいが、今はロシアのBTb24が入っている。ドルを持って行った方がいいと言われてそうしたが、ここは日本円も両替できるらしい。
ビルは近代的かつ無機的で、言われなければその最上階に領事館があることなど想像もつかなかったが、唯一通りに面して高々と掲げられた日の丸がその存在を誇示していた。

かつて日本だったとはいえ、60年もの時を経れば雰囲気はすっかり異国のそれである。広々と整備された歩道や、丁寧に管理された花壇など、街の手入れの仕方にヨーロッパの匂いを感じられるが、ただ唯一、街行く車はほぼ例外なく右ハンドルの日本の中古車であるから、そのギャップが面白い。
その中で日本時代の遺構も僅かながら残っている。まず駅からほど近いサハリン州立美術館はかつての拓銀豊原支店の建物を利用したものだし、ガガーリン公園は豊原公園と呼ばれていた。今はちょっとした遊園地のようになっていて、子供連れの家族で賑わっていた。
もちろん日本時代からの店ではないが、日本食のレストランもいくつかある。その1つがその名も「ニホンミタイ」。1階が日本の品物を揃えた雑貨店、2階が回転寿司屋になっている。一番安いネタでも100ルーブル(1ルーブル≒3円)以上するのであまり気軽には食べられないが、雰囲気はそれっぽい。しかしシャリは是非とも冷ましてほしい。

この店が面している通りを山の方へ上っていくと勝利の広場に出る。駅から数十分歩いたくらいの距離なのだが、すっかり郊外といった雰囲気になった。中心街は車の列や埃っぽさで雑然と見えてしまったが、この辺りまで来ると美しい街の輪郭を見ることができた。
勝利の広場の裏手はスキー場なのだが、その上には展望台があって、道もつながっているとガイドブックにあった。かつての旭ヶ丘、今は山の空気展望台と呼ばれている。
昔は樺太神社、現在は終戦記念碑がある広場のあたりから、舗装されていない道を1時間ほど登る。ガイドブックが古いせいか、展望台らしきところにはスキー場のゴンドラ乗り場ができていて、市街は一望できたとはいえ、言うほど眺めは良くなかった。更にタイミングの悪いことに空を分厚い雲が覆い始め、急いで下りようにも間に合わず、激しい雷雨に晒される羽目になった。幸い傘は持っていたものの、ジーンズは泥まみれになってしまった。

もう一つの遺構を訪ねてみた。州立郷土誌博物館、かつて樺太庁の博物館として建てられたものが、今もそのまま博物館として使用されている。
サハリンの興りに始まり、かつて住んでいたアイヌの人々や日本領だったころの展示、そして今に至るまで豊富な所蔵品があり、ロシア語の解説しかなかったのは惜しかったが興味深かった。50ルーブル払えば写真撮影もできたので、遠慮なくカメラのシャッターを切りまくった。
南北樺太をかつて隔てていた石碑もここに展示されていた。南側に面した方に菊の紋様が刻み込まれ、今でこそショーケースの中の飾りでしかなくなってしまったが、かつては国境の存在を力強く示していていたに違いない。
ふと何枚かの写真に目が留まった。1946年に撮られたというこれらの写真は、当時ソ連の人々に混じって日本人が、喜々とした表情でメーデーを祝っている様子を写していた。
終戦直後の混沌とした頃、写真の人々は何を思っていたのか。この展示は何を伝えようとしているのか。ロシア語しかない解説から窺い知ることはできなかった。

今夜は夜行列車で更に北へ向かうが、その前に街で夕食を済まそうと、ガイドで目星をつけた日本食レストランを探した。ところが探せど探せど見つからず、約2時間ほど食べ物を探して街をさまよった。
まずガイドにデパートと紹介されている「サハリン」に行ってみた。しかし日本で言うところの百貨店とは異なり、アルミサッシとガラスで区切られたブースに専門店がいくつも入居していて、建物の中に商店街があるような感じだった。正直殺風景で華がない。昨日の晩餐で「ロシアは他の国から見て50年は遅れている」という冗談が飛び交ったが、生活水準が劣っているとは思わないにせよ、華やかさという意識が人々の中で根付くまでにはもう少し時間がかかるのかもしれない。
続いて市内で最も賑わう自由市場を訪れた。食料や日用品を幅広く扱い、夕餉時ということもあってか活気があったが、しかし夕食をとれそうなところはなかった。
結局疲れ果て、ホテルの隣、駅の並びにあるハンバーガーショップで済ませることにした。しかし店員の緩慢なこと。一つ一つの動作が鈍いのはとにかく、各自が自分の役割しかこなそうとしないのが良く分かる。こうして見ると、日本の商売はやはり洗練されているなと感じる。
ハンバーガーを頬張っていると、ふと聞き覚えのあるメロディが流れて出した。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」だった。ハンバーガーショップでマイケルが流れるなど、十数年前のこの国では考えられなかったに違いない。

駅の売店で日本のビール(少し高い)を買い、20:45発のノグリキ行き1列車に乗車した。2等寝台は昔ながらの4名1組のコンパートメントで、他の3人はいずれもロシア人、全員がノグリキまで行くという。
全員英語が少し話せたのでコミュニケーションにはあまり困らなかったが、そのうちの一人が私に「君はフィリピン人か?」と尋ねた。去年の台湾では3回も道を聞かれたりもしたが、そんなに日本人離れした顔に見えるのだろうか…。
いや日本人だ。どこから来たんだ?東京だ。東京は大きな街なのか?そんなことを聞かれた。言い方は悪いかもしれないが、この島から出たことのない人間にとっては想像のつかないような場所であるに違いない。
他のコンパートメントでは相乗りの人々同士で酒盛りが始まっていたが、私の相席の人々は全員さっさと寝入ってしまったようだ。かくいう自分も歩き通しで早く休みたかったので、夜の車窓を眺めながらビールを飲み干し、寝ることにした。

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