国境を目指す道・対馬編 (その一) - 壱岐・対馬から韓国上陸、そして山陰へ戻る -

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昨晩は目抜き通り沿いにある「ホテル対馬」にすぐチェックインし、食事もコンビニで軽く済ませ、早くに寝た。
翌朝、朝食のために食堂に入ると、先客の賑やかな声が聞こえてきた。「少し騒がしくてすみませんけど、こちらへどうぞ」と案内されたのは日本人用のテーブルで、賑やかな一角は韓国人団体だった。日本人のテーブルには人影は少なく、一方で韓国人団体が食事を終えて出て行ったかと思いきや、すぐに次の団体が入ってきた。
ここはメニューも日本人と韓国人とで変えているらしい。ホテルの人々が、片言の、けれども元気の良い韓国語でキムチを配っているのが目に入った。
食事を終え、レンタカーが来るまでの間、野暮用も兼ねて辺りを散歩することにした。まず八幡宮神社にお参りをと思って境内に入ると、朝も早い時間だというのに、韓国人団体が韓国語のガイドを受けていた。こんなところが観光コースに組み込まれていること自体驚きだったが、どんな説明を受けているのか、気になってしまった。
武家屋敷が立ち並ぶ中村地区の通りをぶらぶらと歩く。いかにも日本らしい街並みだ。国境の島とは言え、町の表情に異国情緒はさほど感じない。
auショップを見つけ、SIMカードを一回抜き差ししてもらうと、携帯は案の定復活した。職場に携帯復旧の一報を入れると、「今どこにいるんですか?」という返事が返って来た。後で聞いたところでは、職場ではしばしば「奴はまだ日本にいるのか?」と話題になっていたらしい。
宿に戻る途中で、レンタカー屋から「車の準備ができた」との連絡があった。今はこれしかありませんけどと手配された軽自動車だったが、同乗者がいるわけでなし、足にさえなれば問題なかった。
観光案内所で入手した地図を開き、まず島の南西、豆酘(つつ)を目指すことにした。道のりは少し険しく、舗装されているとはいえ幅の狭い山道を延々と進み、厳原から豆酘の集落まで1時間半ほどかかった。そして島の南西端、対馬海峡に突き出た豆酘崎に着いたときには、もう昼近くになっていた。
海に顔を出す岩礁の先に灯台が立つ、静かな岬だが、今も昔も海峡を往来する道標であることには変わりない。またかつては軍事的にも重要な役割を果たしていたといい、弾薬庫の跡もあった。
車に引き返すと、観光バスで多数の韓国人客が乗り付けてきたところだった。国籍がどうこうではなく、騒々しいのは好きではない。静かなうちに立ち寄れて良かったと思った。
島の西岸を沿って走ると、途中の椎根集落には石屋根の倉庫があった。日本の農家の趣を持ちながら、石で葺かれた屋根は対馬独特のものだという。石屋根は上に積まれたものほど外に突き出していて、堂々とした佇まいに見えた。
その先の佐須浦は、1274年の文永の役で、時の守護代宗助国が元軍を迎え撃った古戦場である。元軍の兵力は3万、対する宗助国は80騎余りで、まさに多勢に無勢、絶望的とも言うべき戦況の下で敵軍に立ち向かい、数刻のうちに玉砕したのだという。宗助国とその部下は近くの小茂田浜神社に祀られ、今も毎年11月12日には慰霊祭が行われている。
文永の役と、その後の弘安の役を経て、壱岐・対馬は「酸鼻極まる惨状を呈していた」(案内板の記述の通り)という。神風到来に代表されるように、元寇は侵略者を見事撃退したという美談を以って語られることが多いように思うが、その陰で国境の島が受けた傷は大きく、深いのだ。
車を走らせ、旧美津島町にある日本最古級の城跡であるという、金田城跡を訪れようとした。だがそこに至る道が深い砂利で覆われた未舗装道で、更に入口から数時間の登山が必要と分かり、とても辿り着けないと観念、引き返した。
美津島の中心街、鶏知(けち…「鶏」の正しい表記はもっと難しく、表示できない)で国道382号線にぶつかった。ここを左折、つまり北に向けて走り出すと、すぐのところに対馬空港がある。対馬の空の玄関口は、画一的な2階建ての造りだった。
空港内の食堂で、あおさがたっぷり乗ったうどんを食べた。あおさの塩味が薄口のダシに合っていて、美味しかった。
更に北へ向かうと、対馬の上下を結ぶ、赤いアーチ橋の万関橋に差し掛かった。この辺りは上下に長い対馬の最も細い部分にあたり、橋が架かる万関瀬戸は明治時代に旧海軍によって掘られたものだ。つまり対馬は人工的に上下に分断されたのである。
更に万関瀬戸の開削と前後して、対馬各所への砲台の配備が進んだ。対馬が軍事的な重要性を増した頃の産物である。
更に北に走ると旧豊玉町で、国道を反れ、仁位浅茅湾の入江に面したところに佇むのが和多都美(わたづみ)神社である。
本殿を背にして真っ直ぐ五つの鳥居が立っており、そのうち先の二つは海上にある。潮の満ち引きで、鳥居も姿を現したり、海中に姿を消したりする。
最初は韓国人の団体が写真を撮ったりしていて賑やかだったが、彼らが去ってしまうと私一人しかいなくなり、辺りは静かで荘厳な雰囲気を取り戻した。落ち着いた気持ちで、本殿に手を合わせた。
続いて隣の旧峰町、木坂海神神社を訪れた。海沿いの地域ではあるが、和多都美神社とは違い、原生林の中に木造の大きな社殿があり、対馬国の一宮に相応しい堂々とした佇まいを見せていた。
海神神社近くの海岸、御前浜には、海で採れた藻を保管しておくのに使われた藻小屋が建ち並んでいる。石造りの建物は、日本ではほとんど見られない様式であるように思う。
海岸には石を幾重にも積み上げてできた塔がいくつもあった。ヤクマ祭という、豊作と日の神に祈る祭りに使われるのだという。一宮の膝元で行われる祭りであるから、さぞかし大いに御利益もあるに違いない、と想像する。
だがそんな場所であるがゆえに、御前浜に打ち上がった無数のゴミを見てより陰鬱な気分になった。夥しい数のペットボトルやポリタンクには、ほぼ全てにハングルが書かれていた。清掃する費用も馬鹿にならず、対処し切れず放置せざるを得ない―そんな事情が思い浮かぶ。
日本人が全くゴミを出さないとは思わない。どっちもどっち、と言う気もないが、何にせよ、こんなことが互いのやっかみの一因になっているとしたら、それはとても嘆かわしい。逆にこうした局地的な問題が、関係改善につながるきっかけになれば良いのだが。
圏外状態だった携帯に突然SMSが入った。電話会社からの自動メッセージで、海外でのパケット通信の料金体系と、日本への電話のかけ方だった。どうやら韓国の電波を微弱ながら拾ったために、国外に出たものと判断されたらしい。異国は近い、と改めて思った。
厳原へ戻る途中、妙な案内板を見つけた。一見、左に行っても右に行っても「曽田」のように見えたが、実は左に行くと「曽」、右に行くと「田」なのだった。つまり曽と田という別の地名である。「どこの生まれ?」『曽の出です』『私は田です』そんなやり取りが思い浮かんだ。漢字一文字に読み一文字は極端にせよ、他にも琴(きん)、銘(めい)、曲(まがり)など、対馬には一文字の地名が多い。
一文字でなくても、豆酘や鶏知もユニークな地名だし、阿連(あれ)という場所もある。北海道のように、もともとあった音に漢字を強引に当てたようにも感じる。
途中、美津島の温泉「真珠の湯」で入浴した。ホテルに併設されている温泉だったが、「団体さんが先にいるんですが、もうすぐお出になると思うんで…」と言われながら浴室に入ると、韓国人客しかいなかった。眼鏡を外して良く見えなくても、シャワーの浴び方が日本人より豪快だから、すぐ分かった。
厳原に戻り、給油を済ませて19時の期限ギリギリに車を返した。かなり駆け足で、島の南半分を見るのが精一杯だった。対馬は広い。
その後、ところどころに防火のための古い石垣が残る路地を歩いていると、近くの民家の人々が迎え火を焚いているのが見え、盆の始まりかとしみじみ思った。
そのあと食事にしようと思った。対馬最後の夜は名物の石焼と、焼酎に舌鼓を打ちたいと思い、とある店に入った。ネット上でも上々の評判の店だった。
一度テーブル席に就き、石焼を食べたい旨を伝えると、ここではできませんのでと、8人は優に入れる個室に案内された。店は空いているようだったので、決して迷惑になったわけではないらしかったが、如何せん落ち着かなかった。
熱々の石の上で、野菜や魚を焼いて食べるのだが、火を通す加減が難しく、なかなか上手く焼けなかった。それよりも一緒に出された、サツマイモの麺が入ったスープの方が美味しく、印象に残った。
店も料理も何一つ悪くない。ひとえに私の不器用さのせいである。

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