惨禍の痕と栄華の跡 (1) - ベトナム発タイ行き、カンボジア横断記 -

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現地時間の朝5時過ぎ、機体はホーチミン・タンソンニャット国際空港に降り立った。出発前に飲み過ぎたのか頭痛が酷かったが、着陸する頃には落ち着いていた。
ベトナムから出国する手段は用意しているから、査証免除要件に当てはまると確信はしていたが、いざイミグレの列に並ぶ段になると不安が募った。そこで日本人らしき空港職員氏にその旨を話すと、「多分大丈夫でしょうけど、私からも話してみましょう」と、入国審査中にも間に入って私の行程を説明してくれ、難なく入国が許可された。
そうでないときも、その彼はイミグレの前後を自由に行き来していて、いくら空港職員とはいえ何者だろうと思った。もちろん、スムーズな手続きを取り計ってもらい、バスの乗り場まで案内してくれた彼には感謝している。
到着ロビーを通り過ぎて外に出ると、まとわりつくような湿気と温度を感じた。残暑厳しい日本でも、今年は珍しく既にすっかり秋の気配に包みこまれていたから、そこに再び夏を感じた。
次々に言い寄ってくるタクシーの客引きを全て断り、乗り場に停まっていたバスに乗り込むと、ちょうど出発時間だったのか、それとも乗客を待っていただけなのか、ともあれすぐに発車した。空港と言えば大概、市街地からは少し離れた場所にあるものだが、ここは空港を出てすぐに雑多な商店群が姿を現し、無数のオートバイが通りを駆けていた。
そのエネルギッシュな様に、次第に頭が覚めてきた。
バスは市街地へ行くとだけ確認していて、市街のどこに着くのかは知らなかったが、地図と景色が一致したベンタイン市場前のバスターミナル近くでバスを降りた。
日曜日の朝だというのに、道を行き交う車やオートバイの数は夥しく、多くの店も営業していた。照りつける日差しも強く、少し歩くだけで身体中が汗ばみ始めた。
ところどころ凸凹している道を歩くのに、キャリーバッグが邪魔だったので、まずは宿へ向かった。チェックインまでの間、荷物を預かってもらえるかもしれないし、あわよくば部屋を早くに用意してくれるかもしれない…という都合の良い打算だった。
ホテルに入って名前を告げると、すぐさま「あなたのチェックインは12時でしょう?でも荷物は預かりますよ」と言われ、何を言うまでもなく目論見の半分は達せられた。
ともあれ身軽になった身体で、まずはベンタイン市場へと引き返した。ここも恐らく全ての店が開いていて、活況を呈していた。特に食物を扱う店が集まっている箇所は、独特の生々しい、ともすれば少し苦手な臭いが満ちていた。
市場の真ん中あたりにある店でフォーを食べた。米でできた麺とあっさりとしたスープは日本人の口にも良く合い、朝でも食べられる、むしろ朝こそ食べたいメニューではないかと思う。
その後街を歩いていると、南北統一40周年を記念する(恐らく…ベトナム語は分からない)看板がバス停に掲げられていたのだが、そのデザインがあたかも旧ソ連のプロパガンダ広告を彷彿とさせるものだった。やはりここは社会主義国なのだと改めて実感した。
市場から歩いて15分ほどのところに、ベトナム戦争証跡博物館がある。日曜日なのだが、修学旅行か何かと思しき学生団体の姿も多く、賑やかだった。
ここに飾られているのは主に写真で、戦争の遺物そのものの展示品は少ない。だがそこには、血まみれになって死んだ人が何の修正もなく写し出され、枯葉剤の影響で奇形を起こした子供の写真は、一部分だけを加工して歪めたのではないかと思うほどだった。
写真だけあって、文章や絵よりも数段鮮烈なのは言うまでもないし、あまりに有名な沢田教一の「安全への逃避」のように、全世界に発信された一枚ある。反戦運動がひときわ盛り上がったのも、情報網や報道網が整った中で起きただけあって、現地の模様がよりリアルに伝わったからではないかと思う。
世界中の人々が心を痛めたはずだ。それでも今なお、世界のどこかで似たような惨劇は繰り返されている。
13時前にチェックインしに宿へ戻った。気温も湿度も東京の真夏そのもの、強い日差しが加わってそれ以上に感じられ、加えて早朝に到着して疲労を感じていたので、シャワーを浴びてひと眠りすることにした。
1時間後に目覚ましを掛けていたが身体が重く、ゴロゴロしているうちに二度寝してしまい、気付いたら15時を回ってしまっていた。早くしないと統一会堂が閉まってしまう…と慌てて飛び起いて街を速足で歩き、どうにか開館している時間に間に合った。
ここはかつての南ベトナム政府大統領官舎であったところで、白いコンクリートでできた、良く言えば近代的、悪く言えば無機的に見える造りだと思った。ただ外に面する部分は全て開放できるように造られていて、暑い盛りでも心地良い風が吹き抜けていた。そして中の造りは大統領官舎だけあって、豪華絢爛だった。
4階には劇場があり、映画や音楽を上演できる設備も整っていたし、ピアノやビリヤード台も据え付けられていた。これを見るだけで、南ベトナムの背後にいたアメリカの影響を強く受けていたことが良く分かった。一方、屋上にはヘリポートが、地下には国防や軍事に関わる施設が整っていて、紛れもなく政治の中枢であったことも物語っていた。
屋上から建物前の庭園、そしてそれに続く街並みを眺めた。かつて北ベトナムの戦車がフェンスを突き破って敷地に突入し、ベトナム戦争は終わった。俗に言うサイゴン陥落である。
この建物はフランス統治時代に建てられ、その後も国際会議などで使用されている。植民地時代から内戦、統一を経て、今や成長著しいベトナムの一部始終を全て見てきたのである。
統一会館から少し歩いたところにサイゴン大教会、そして中央郵便局がある。教会ではミサが開かれ、中からは聖歌を歌う声が聞こえた。いずれも19世紀の終わりに建てられたものだという。この一帯だけを切り取ってみれば、ヨーロッパのどこかの街のようにさえ見えた。 宿に向かう道すがら、夕食を済ませて帰ろうと思い、ガイドブックに載っていたレストランを探したのだが、どうやら閉店してしまったらしく、もぬけの殻だった。 そこで近所で英語で客引きをしていた店に入り、春巻と魚の煮込み(カーコートー…恐らく)を頼んだ。春巻には梅のソースがついていたが、私にとってはテーブルの醤油をかけた方が口に合った。魚は醤油で甘辛く煮てあって、ビールを飲みながらでも、付け合せのライスが進んだ。 食に関しては大分満足してしまったのだが、まだ今日は初日である。

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