惨禍の痕と栄華の跡 (6) - ベトナム発タイ行き、カンボジア横断記 -

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ホテルの前に泊まっていたトゥクトゥクに1ドル紙幣を渡して、昨日チケットを買ったバス会社へやって来た。
その後しばらく待っていると1台のワゴン車に乗せられ、少し離れたバスの発着場に案内された。一昨日のプノンペンと違い、バスの前面には「Bangkok 8:00am」と書かれた紙が掲げられ、これで良いのだとすぐに分かった。
バスはほぼ時間通りに発車し、安心した。さすがに国際バスであり、カンボジア人乗客の中に外国人旅行客の姿も見られた。
再び景色が変わり映えのしない平野の中を行き、3時間ほどして国境の町、ポイペトに辿り着いた。
バスは国境のゲートの前で止まり、ここでバスを降りた。越境手続きを済ませて再びバスに乗ればバンコクに着けるのだが、タイ側は鉄道に乗ってみたいと思い、完全に下車した。
そういうわけでイミグレに向かう乗客一団とは別行動となった。休憩と、あわよくばネットに接続したいと思って手近な喫茶店に入ると、運良くWi-Fiが使える店だった。甘ったるいアイスコーヒーを飲みながら、Twitterに"At the border."と投稿した。
カンボジア土産を買うのを忘れたことに気づき、土産物屋の類はないかと店員の女性に訪ねたが、あいにくNoの返事だった。
ポイペトに見所は特にない。これまで何度も見てきた国道沿いの町と同じような雑多な趣である。国境と街が接しており、ゲートも少し小奇麗な役所の建物にしか見えず、この向こうが異国という感じは一切しなかった。
カンボジア・タイ国境はトラブルが多いと聞いていたので心していたが、出国手続きは窓口にパスポートを渡すだけですぐに終わった。
タイの入国ゲートに至るまでの道のりもまた、多くの地元民と思しき人々が行き交い、露店が並び、そこだけを見れば国境の雰囲気は皆無に等しい。
少し歩くとアンコール・ワットを象った門があり、その先の小川に長さ十数メートルくらいの「友好の橋」が架かっていた。この小さな川が、本当にカンボジアとタイとを隔てている地理的なもであるらしい。「友好の端」の碑の両端にはそれぞれの国旗が掲げられ、これでようやく国境を超えたという実感を得られた。
タイの入国手続きも難なく済ませ、イミグレを出るとすぐに日本とタイの電話会社から、タイでの電話の使い方を案内するSMSを受信した。
時間には余裕を見ていた傍ら、かつ入出国がスムーズに終わり、大分時間を余らせることになったので、近くのカフェで昼食を取り、Wi-Fiで時間を潰した。到着時間を気にしていたバンコクのホテルには、「無事国境通過。予定通りチェックイン見込み。」とメールを送った。
国境からアランヤプラテート駅までは少し離れており、近くに止まっていたトゥクトゥクに声を掛けた。さて料金交渉を…と構えたが、どうやら料金は決まっているらしく、すぐにリアカーに乗せられ、そしてドライバーは何を話し掛けてくるでもなく、黙々と車を走らせた。
タイは日本と同じ左側通行であり、右側通行に慣れかけていたので少し違和感を感じた。国境付近こそやや雑然としていたものの、道路の整備状況は、カンボジアのそれとは比にならなかった。
駅に着くと、13:55発のバンコク行き276列車は既にホームに入線していた。バンコクまでは5時間45分の長い汽車旅だが、料金はたったの48バーツ(約150円)である。固いボックスシートの3等車と、いくらかクッションが効いた2等車を連結していたが、どうやらどちらに乗ってもいいようだったので2等車に乗車した。
アランヤプラテート発の列車は1日わずか2本しかなく、この列車が1日の終発である。鉄路をカンボジアへ伸ばす構想もあるらしいが、需要は定かでないし、何よりカンボジアには鉄道がない。この駅、路線を取り巻く雰囲気は当面変わらないだろう。
車両に冷房はなく、窓を常に全開にして景色を眺めた。バンコクに着く頃には、日焼けと砂埃できっと酷い面構えになっているだろうと思いつつ。
一つ一つの駅に止まり、少しずつ乗客を拾っていく。降りる客はほとんどおらず、皆が揃って首都バンコクを目指すのだろう。東本線という名前がついているが、沿線に大きな街はなく、車窓には変わり映えしない長閑な農村や原野の景色が繰り返し流れ、強いて言えば太陽が少しずつ傾き、大地を徐々に橙に染めていった。
道中、これまでに撮った写真を一から見返した。5日前にベトナムで撮った写真が、遥か昔のもののように思えた。カンボジアでは期待に違わぬ感銘を何度も受けた。そして2つの国境を越えて、今こうしてタイにいる。
このルートを辿る計画は、2年ほど前から温めていた。2年越しの念願、と言ったらあまりに大袈裟だが、長らく想い描いていたゴールが少しずつ、されども確実に近付いていた。
バンコクの街は「都会」だった。
近代的な高層ビルが立ち並び、幅の広い高速道路が並走し、頭上には高架の空港連絡鉄道が走る。一方で旧態依然としたこの鉄路と、そのそばに広がるバラックのような住居は、あたかもここだけが時間から取り残されたかのように見えた。
マッカラン駅までは順調に辿り着いた。あと一駅、次がようやくバンコクだと思ったが、ここからが長かった。たびたび停止し、対向列車を待ったり、あるいは後続の列車を先に通し、なかなか進まない。
結局、バンコク・フアランポーン駅には45分遅れて到着した。最後の1区間があまりにもどかしく、焦らされた分、"BANGKOK"の駅名標を見たときは解脱感が大きかった。
暦は金曜日。週末を控えて盛り上がる人々を横目に宿に入り、私も祝杯を…と思ったが、着く時間が遅すぎて目ぼしいレストランはどこもクローズしてしまっていた。たまたま見つけた屋台でラーメンのようなものを食べ、コンビニで買ったビールを部屋で飲んだ。

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