惨禍の痕と栄華の跡 (3) - ベトナム発タイ行き、カンボジア横断記 -

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プノンペンの東横インにも、お馴染みの無料朝食サービスがある。違いと言えばレストランが最上階、23階にあることで、窓からはプノンペンの市街が一望できる。バーカウンターも備え付けられ、夜はしゃぶしゃぶのディナーが楽しめるらしい(私は行かなかったが)。日本のそれとは異なるコンセプトで、異なる客層をターゲットにしているようだ。
リュック1つで宿を出た。朝にも関わらず日差しは強く、少し歩くだけで汗が滲み出た。プノンペンには列車やバスといった公共交通機関は皆無に等しく、旅行者はタクシーやトゥクトゥク(バイクタクシー)を使うか、さもなければ歩くほかない。
30分ほど歩いて、トゥール・スレン虐殺犯罪博物館に辿り着いた。近代史上、或いは人類史上、稀に見るであろう惨劇がこの地で、それもさして昔ではないときに起きた。
その痕跡を訪れたい―今回の旅でのプライオリティは、アンコール・ワットよりもむしろプノンペンにあった。
この建物はかつて学校として使われていた。周囲には市街地が広がり、日本のそれのような3階建ての建物の前には校庭がある。一見、ここが政治犯を拷問し処刑した強制収容所には思えない。鉄棒に並んで設けられた拷問具が目に入らなければ。
ポル・ポトは「教育など不要」というポリシーを掲げていたという。ここを収容所に転用することを選んだのは、学校という場所に対する当て付けだったのかもしれない。
かつての教室に、一つ一つ足を踏み入れた。例えばフレームがむき出しになった簡素なパイプベッドがぽつんと置いてある部屋がある。そしてその壁には、そのベッドの上で激しい拷問を受けたであろう末に事切れた収容者の、無残な姿を写した写真が掲げられているのだ。到底、写真に収める気にはなれなかった。
かつてアウシュヴィッツで目にしたような、夥しい数の収容者の写真が掲げられた部屋もあった。老若男女問わず、彼らは例外なく、想像を絶する悶絶の果てに命を絶った。そして苦痛を加えていた側の人々もまた、遅かれ早かれ後を追ったという。
当初、処刑はここで行われていたが、対象者が増えるにつれて手狭になったらしく、新たな場所が設けられることになる。
施設を出ると何台かのトゥクトゥクが止まっていて、一人のドライバーに「キリング・フィールドか?」と声を掛けられ、話が早いと思った。
原付に牽かれた、4人まで乗れる屋根付きのリアカーに乗り込んでプノンペン郊外へ向かった。日差しは屋根に遮られ、風が日焼けで火照った体に涼しかったが、道路の舗装状態はあまり良くなく、砂埃が少し堪えた。
プノンペン郊外のチュンエク村にそれはある。通称キリング・フィールド、正式にはチュンエク大量虐殺センターといい、トゥール・スレンに収容された人々が最終的に運ばれた場所の一つである。キリング・フィールドと呼ばれる場所は300箇所以上存在するというが、その中で最も有名で、整備されているのがここだ。
各国語のオーディオツアーが用意されている。その中から日本語のプレーヤーを受け取って敷地に入ると、まず目に入るのは慰霊塔で、ここで命を落とした人々の、夥しい数の頭蓋骨が中に飾られているのが、遠目にも見て取れた。
ナレーションに従って歩みを進めて行くと、人々はどのようにここに送り込まれ、そしてどのように命を落としたのかが分かった。例えば地面に掘られた穴の淵に立たせて、後ろから鈍器や農具で殴り付ける、鋭利なヤシの樹皮で首を切る、幼子を木に叩き付ける、などである。殺し方に優劣などあろうはずもないが、それにしても稚拙で粗暴で、残虐なやり方ばかりだ。
木に吊るされたスピーカーからは、革命歌が絶え間なく、大音量で流されていたという。それは決して人々を鼓舞する目的で流されていたのではなく、人々の苦悶の声をかき消すためだったらしい。
ここには隷属も酷使も拷問さえもない。ただ殺戮だけが行われていた。
ポル・ポトという人物の考えに思いを巡らせてみる。あくまで空想である。
クメール・ルージュを率いたポル・ポトは、極端過ぎる共産主義政策を取った。都市から住民を追放して農地に強制移住させ、市場や通貨を廃止し、更に教育や宗教も禁止した。
こうした政策の先にあったのは「全ての人民が平等な国家」という理想だったのではなかったか。そのことの是非はさておくとしても、革命に着手した頃の彼にも、変革への強い意志や憂国の情といったものがあったのではないか、と思うのだ。
だとしたら、高い志を持ちながら、次第に歪み、果ては凶行に走らせたきっかけは何だったのだろう。自らの理想が現実的には機能しなかったことに対する焦りが募り、次第に周囲の人間への猜疑心ばかりが強くなったのかもしれない。
全て空想である。だがそんな風に考えると、どれほどの才能と行動力を兼ね備えていても抗えないほどに、人の心は弱く、脆いのだと改めて感じてしまう。
待たせておいたトゥクトゥクでプノンペンに戻った。
昼食をと思って街を歩いていると、"Japanese Noodle Bar Shangri-La"という店を見つけた。「ラーメン」と書かれた幟があり、あまり期待せずに店に入ると、実際は日本人が経営する本格的な店で、ラーメンも餃子も白米も日本のそれだった。少なくとも3年前にモスクワにいたときはこんな料理を出す店は皆無だったから、よほどモスクワよりプノンペンの方が日本人にとって住み心地が良い、と思った。
腹ごしらえを済ませて、王宮方面へ歩いた。黄色い屋根の王宮の前の歩道にも黄色のタイルが敷き詰められ、強い日差しが照り返して若干目が痛くなった。
王宮、そしてその横に鎮座するシルバーバコダには多くの外国人旅行客が訪れていた。敷地の中は綺麗に整えられ、喧騒渦巻くダウンタウンとは別世界のような静けさと荘厳さが漂っていた。
そして敷地内には、アンコール・ワットの模型が飾られていた。王宮もシルバーバゴダも、長い歴史を持つ名建築の数々なのだろうが、私の趣味嗜好に照らせば、それほどのインパクトを与えるものではなく、それよりむしろカンボジアにとっては、どれほど華美な王宮を構えたとしても、やはりアンコール・ワットこそ最高の至宝なのだろうと思ったことの方が印象に残った。
シルバーバゴダを見学していた辺りから雲行きが怪しくなり、終いには黒い雲が空を覆い始めた。これはひと雨来ると思い、急ぎ足で宿の方を目指したが、とうとう大粒の雨が降り出したあたりでトゥクトゥクを目がけて手を挙げた。
トゥクトゥクのドライバーには、宿ではなくイオンモールに向かわせた。案の定、その道中で雨はスコールと化し、水はけの良くない道に大きな水溜まりを作った。イオンの目の前でトゥクトゥクを降り、バイクの駐車場の辺り、屋根のあるところで雨が上がるのを待ったが、待てども雨足が弱まる気配は一向になく、痺れを切らして全速力で店内目がけてスコールの中を駆け抜けた。
小腹が空いたので、イオンのフードコートでカンボジアカレーを食べたが、ココナッツミルクの甘さが苦手な上、今まで食べたことのない味の野菜が付け合わせに出され、少しげんなりした。
どうにか全て平らげてそそくさと席を立ち、店の中を歩いたが、ノジマ電器や銀だこ、ペッパーランチといったお馴染みの店が軒を構えていた。商社、銀行、メーカーに限らず、今や様々な業種、企業が海外進出にチャレンジしているのだと、改めて知った。
1階のスーパー部分で職場への土産とカンボジアビールを買い込んで建物を出ると、雨は綺麗に上がっていた。イオンモールから東横インまでは歩いて10分ほど、そそくさと部屋に戻ってビールを飲んだ。

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