東側からの東往記 (1) - ロシアから東欧へ、烏洪墺捷波5カ国訪問記 -

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アエロエクスプレスの切符売場で、ビジネスクラスのチケットを買い求めた。夏休みを迎えて、気分も財布の口も大きくなっていた。一般車両の320ルーブルに対して、こちらは700ルーブル。倍以上の額とはいえ、今回限りというなら躊躇する額でもなかった。
全席指定、広いシート、ワードローブにフリードリンク(水だが)と表向きは至れり尽くせりのように見えたが、座席は大きいだけで身体にフィットせず、調整もできず、収納式のテーブルは壊れていた。もう二度と使うことはないだろう。
気を取り直して、ドモジェドヴォ空港に降り立った。チェックインはWebで済ませていたので、さっさとイミグレを通り抜けた。これでシェレメチェヴォ、ヴヌコヴォと併せて3空港全てのスタンプがパスポートに押された。そんな理由で、今回はドモジェドヴォ発にこだわった。
ドモジェドヴォはいつも混んでいる。この日はイミグレで待たされなかったのは幸いだったが、利用者の割に狭い出発ロビーは、大勢の客がベンチにすらありつけないでいた。
どうにかバーカウンターの1席を見つけ、ビールを頼んだ。『良い旅を』―連れがいようといなかろうと、朝だろうと夜だろうと、こうして杯を空けるのが、私なりの旅の始まりの儀式なのだ。
ロビーにはいろいろな行先の便を案内するアナウンスがひっきりなしに流れていた。しかもそれぞれがロシア語、英語、そして行先の現地語で行われるから、最後は聞いたこともない言葉で締めくくられることになる。国際色豊かで面白かった。
ウクライナ・シンフェローポリ行きのS7航空263便は時間通りに搭乗が始まった。鮮やかな黄緑一色の機体は、もはや馴染みの存在になった。アエロフロートと同じか、もしかしたらそれより頻繁に利用しているかもしれない。
機体は国境を飛び越え、ウクライナを南北に縦断して黒海に突き出るクリミア半島を一直線に目指した。シンフェローポリはクリミア自治共和国の首都であり、黒海に面した保養地ヤルタへの玄関口でもある。機内はヤルタでバカンスを楽しむと思しき人々で賑わっていて、何人かの人は、自分と同じ行程を辿るかもしれないと思った。目的は違うが、私もヤルタに用がある。
2時間半のフライトは順調そのものだった。タラップで地表に降り立つと、既に肌寒く晩秋の気配すら漂っていたモスクワとは打って変わって、約1,300キロ南のこの場所の陽射しはまだ夏を感じさせた。
バスで到着ロビーに通され、パスポートコントロールの列に並んだ。ウクライナに行くのにビザは不要で、パスポートに入国印を押されただけで終わった(どうしてか、わざわざ最後のページにだったが…)。旧ソ連の国々で我々日本人がビザ無しで渡航できるのは、EUに加盟しているバルト三国を除けば、同じくEU加盟を目指しているモルドヴァと、ここウクライナだけだ。
旅行者にとって、ビザは障壁以外の何物でもない。ウクライナは門を開いたが、ウクライナの人々が日本に行くには未だビザが要る。過去の経緯はどうであれ、警戒し合っては良い交流には決してつながるまい。日本対ロシアの関係にも言えることだと思う。
到着ロビーの両替所で手持ちのルーブルをウクライナの通貨、グリブナに替え、ターミナルビルの前に停まっていた路線バスにそそくさと飛び乗った。ロシア脱出を果たした余韻に浸りたかったが、とにかく今日は時間がなかったのだ。 鉄道駅前でバスを降り、ヤルタへ向かうトロリーバスの乗り場を探した。ただでさえ目立たない建物である上、ウクライナ語(ロシア語と似ているが…)が書かれていたので少し迷ったあと、どうにか辿り着くと、やはりハイシーズンであるらしく、バスの切符売場には長蛇の列が出来ていた。言葉も地元民の行動パターンも良く分からない中、買いはぐれないように存在をアピールするのに必死だった。
無事に切符を買い求め、バスに乗ることができた。幸い、乗車順序が先の方だったので席に座れたが、続々と大きな荷物を持った人々が乗り込んできて、一見普通の路線バスのような車両は、それこそ都心部の路線のような混雑になった。
さてこのクリミアトロリーバスの路線長は86km、世界最長のトロリーバスとしてギネスにも認定されている。アップダウンのきつい山道を、一般車や通常のバスがどんどん追い抜いて行く傍ら、のんびりとしたスピードで走るのだ。車窓にゆっくりと流れる景色は、どこか日本の峠を彷彿とさせた。
シンフェローポリから約2時間半、視界に海が飛び込んでくると、まもなくヤルタの市街地が見えてきた。しかし、ようやくかと思ったのと同じようなタイミングで、今にも泣き出しそうだった空からとうとう雨粒が落ちてきた。しかもバスターミナルでバスを降りると同時に土砂降りに変わり、水はけが良くない路面に次々と大きな水溜りを作った。
傘はあったが、大きな荷物が邪魔だった。しかしここから中心街までは歩いて20分ほどあり、自分も荷物もずぶ濡れになるのは自明だった。他方、雨足は到底弱まりそうになく、結局タクシーで荷物ごと観光に出かけることにした。いろいろ観て回っている間に雨も止むだろう、という目論見だった。
ヤルタの市街からおよそ3kmのところにあるリヴァーディア宮殿に駆け込んだ。ニコライ2世の夏の別荘として建てられた建物だが、この場所の知名度を飛躍的に高めたのは、ここがヤルタ会談の会場だということであろう。
これは会談で使用されたテーブル、ここはルーズヴェルトの寝室…などと、詳細な説明が添えられていたが、中でも気を引いた場所が一つあった。控室として使用されたという部屋で、ここのベンチにルーズヴェルトとスターリンが並んで座り、対日戦略についての話し合いが持たれたという。
オフィシャルの会談の場ではないこの部屋で、どんな言葉が交わされたのか。何にせよ、それがその後の日本の運命を決定付けたことだけは間違いないのだろう。
見学ルートの後半は宮殿の造りや、ニコライ2世が使用したという家具、食器等を展示したコーナーになっていたが、正直あまり興味のない分野だったので、軽く流した。
外に出ると、期待した通りに雨が小降りになった。そして休憩がてら、近くのカフェでビールを飲んでいると、とうとう雲の切れ間から日の光が差し込んできた。もう雨の心配はあるまい。
再びタクシーで、通称「ツバメの巣」に向かった。黒海に突き出した断崖の先に、一見の館が聳え立っている。館はドイツ人の富豪によって建てられ、現在は高級レストランになっているということで、特にヤルタゆかりの何かというわけではないのだが、そのロケーションでヤルタ随一のビュースポットということになっている。またこの辺りには、海岸線に沿って敷かれた道路の脇にホテルやペンションがいくつも建ち並び、いかにも保養地という様相を呈していた。日本人の目には、どこかの温泉旅館街のように見えた。
バスで市街地に戻り、街の中心にあるホテル「ブリストル」にチェックインした。フロントの女性に「ビーチは朝8時から開いています」と言われた。海水浴するかどうかはともかく、まだ海をきちんと見ていない。明日は天気が良くなればいいのだが。

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