東側からの東往記 (2) - ロシアから東欧へ、烏洪墺捷波5カ国訪問記 -

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朝食を済ませて外に出ると、期待通り、抜けるような青空が広がっていた。
メインストリートのレーニン海岸通りは歩行者天国になっていて、車に気を遣わず、海を見ながら歩くことができた。昨日はあいにくの天気で見えなかったが、ヤルタが背後のクリミア山脈と、美しい黒海に挟まれた風光明媚な場所であることが分かる。保養地として栄えた理由が良く分かった。
通り沿いには小さなビーチ(砂浜ではなく、砂利なのだが)がいくつかあって、海水浴を楽しむ人々で賑わっていた。これを見て、衝動的に自分も海に入りたくなった。海岸通りから1本奥に入った、ペンションや貸しアパートが建ち並ぶ静かな通りを抜けて宿に戻り、水着と必要最低限の荷物だけを携えて、昨日フロントの女性に教えられた海水浴場に足を向けた。
いくつかのパーティションに区切られたビーチは無料の場所と有料の場所があって、当然無料の方が混んでいたが、それでも芋を洗うような混雑というわけではなかった。少し冷たい海水に身体を慣らしながら沖へ進むと、たちまち足が届かないほどの深さになった。足がつって溺れでもしたら洒落にならない。身体をほぐすように、ゆっくりとしたストロークで海水浴を楽しんだ。
再び宿に戻ってシャワーを浴び、荷物をまとめてチェックアウトしたあと、マルシュルートカに乗ってバスターミナルに向かった。しかしアナウンスなどはないので、うっかり乗り過ごしてしまい、重い荷物を担いで歩いて戻る羽目になった。
気を取り直して、バスターミナルで、一番早く発車するシンフェローポリ行きの乗車券を買った。ターミナル外の乗り場には「シンフェローポリ」と表示されたバスが何台も停まっていたが、出発時間がフロントガラスに貼ってあり、これでどのバスに乗ればいいかを判断するわけだ。
冷房のないバスは熱気が立ち込めていて、この先の旅程が少し思いやられたが、動き出すとたちまち涼しい風が入り込み、ちょうどいい空気になった。行きにトロリーバスで辿った峠道を、快調なスピードで駆け抜けていった。
ちょうど2時間ほどでシンフェローポリの駅前に到着した。昼食をと思って駅前のマックに入ると、ちょうど昼時ということもあったが、かなり混んでいた。マックが好きなのはロシアもウクライナも変わりないらしい。
15分ほどで手早く食事を済ませ、空港へ向かうバス乗り場を探した。駅から少し離れたところにあったが、幸いすぐに乗り場もバスも見つけることができた。空港まではおよそ20分である。
出発ロビーは実に小ざっぱりしていた。白一色の屋内にチェックインカウンターがいくつかと小さなカフェが1つ、セキュリティチェックの後に売店が1つあるだけだった。さっさと搭乗手続きを済ませ、搭乗開始を待った。
キエフ行きのアエロスヴィート・ウクライナ航空(VV)204便は、ウクライナの国旗を模した、黄色と水色の機体でのフライトだった。ブッキングのときから窓際の席を選んでおいたのだが、よりによって私の座席だけ、窓が埋まっているただの壁だった。
フライト自体は快調で、約1時間半でキエフ・ボリスピリ空港に到着した。空港はキエフ市街から40kmほど離れていて、バスで地下鉄のハルキフスカ駅へアクセスするのが一般的である。すぐにバス乗り場をターミナル前に見つけ、乗車を待つ列に並んでいると、どこからともなくやって来た男性が「ハルキフスカ駅へ行くのか?」と尋ねてきた。そうだと答えると、同じ方向に行く客がいるから乗って行け、割り勘にするからと言う。しかしバスの料金は220グリブナ、タクシーを3人で割り勘すると1人当り300グリブナだったから、悪い話ではなかった。
そういうわけで見知らぬ客との相乗りでキエフ市街を目指した。空港を出てすぐ高速のような広い道路に出、100キロ以上のハイペースを終始キープできたので、あっという間にハルキフスカ駅まで着いてしまった。
ここで地下鉄に乗り換える。料金は全区間均一2グリブナで、ジェトンと呼ばれるコインを受け取って改札機に投入する、サンクトやノヴォシビルスクの地下鉄と同じ乗り方だ。駅の装飾も車両もロシアのそれと全く同じで、ほとんど違和感を感じなかった。違いと言えば、アナウンスがウクライナ語だったこと、お情け程度に英語のアナウンスがあったことと、エスカレーターの速度がモスクワのそれより更に速かったことくらいか。
キエフ市街の中心部、ゾロチ・ヴォロータ(黄金の門)駅で下車した。駅名の通り、目の前に黄金の門が聳える。
今日の宿Mini Hotel Kiex Downtownもこの駅の近くにあるはずだった。5分ほど歩いて、目当ての住所は見つかったが、ホテルを示すものは何一つ見当たらなかった。不思議に思って住所を良く見返してみると、「108号室」と書いてあった。
これはまさかと思って通りとは反対側に回ると、アパートの入口がいくつかあり、私と同じBooking.comのプリントアウトを持った女性が電話していたのが目に入った。その女性に声をかけると、彼女も私と同じ宿を探していて、もうすぐフロントの女性が迎えに来ると教えてくれた。そしてお迎えの女性は、アパートの入口から出て来たのだった。
そんなアパートの一室を改装した宿だったが、部屋は必要かつ十分な機能を備え、ネットも問題なく使え、申し分なかった。
既に18時を回り、日は傾きかけていたが、街歩きに出かけることにした。宿は様々な名所が軒を連ねるウラジーミル通り沿いにあり、立地は申し分なかった。 地図を片手に、ウラジーミル通りを左端から見ていくことにした。まず真っ赤な校舎を構える、シェフチェンコ記念キエフ国立大学である。徴兵拒否運動を起こした学生に対して、ニコライ二世が罰として血の色、つまり赤に塗り潰させたのだという。校舎から道路を挟み、詩人シェフチェンコの肖像がちょうど正対する形になっている。血の色の学び舎をどう見ているのだろうか。
ホテルの前を再び通り過ぎて少し歩くと、ソフィア大聖堂、聖ミハイルの黄金ドーム修道院と、巨大な教会が立て続けに表れる。前者は1037年に建設されたキエフ最古の教会で、世界遺産にも登録されている。一方後者も、11世紀に端を発す歴史ある教会だが、宗教弾圧の一環として1937年に取り壊され、現存するのは2000年までに再建されたものだという。何がきっかけで片や破壊され、片や残されたのかは分からない。
黄金ドーム修道院の裏手はドニエプル川を見下ろす丘になっていて、公園が広がっている。展望台から見渡すと、川の対岸は森が広がっていて、更にその遠く向こうに市街が形成されているのが目に入った。地図によれば、この森は全てドニエプル川に浮かぶ中洲であった。今の中心市街に近い、この中洲に街を作ろうという動きはなかったのだろうか。少し不思議な感じがする。
いったん丘を徒歩で降りて川沿いを歩き、ケーブルカーで再び丘の上に戻った。
ケーブルカーの乗り場のすぐ北にあるのがアンドレイ坂で、これを下るとポディールというかつての商業地区に出る。ちょうど夕日が西の空に沈む掛けているのが見え、赤い光を浴びるアンドレイ教会の姿が美しかった。
近くの駅から地下鉄に乗り、中心市街地へ戻って、ウクライナ料理のレストラン「ヴーリク」に入った。ここで緑のボルシチ(赤ばかりとは限らないのだ)とキエフ風カツレツを注文する。ロシア料理の代名詞というべきボルシチだが、実はウクライナが発祥なのである。キエフ風カツレツは鶏肉とバターを包んで揚げたものだが、ここのはバターの量が半端ではなく、ナイフを入れるとバターが勢いよく皿全体に広がった。
食事を終え、腹ごなしもかねて歩いて宿に戻った。メインストリートはウクライナの国旗と国章を模したイルミネーションで彩られ、独立広場も日曜の夜にも関わらず、活気に溢れていた。

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