東側からの東往記 (3) - ロシアから東欧へ、烏洪墺捷波5カ国訪問記 -

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朝起きると天気が良くなかった。天気予報によれば、今日のキエフは1日中天候が優れないようだったが、これからの行先は晴れているという。
地下鉄を乗り継ぎ、ドニエプル川に面して建つペチェールスカ大修道院を訪れた。1051年に端を発する、東スラヴで最も古い歴史を持つ修道院であり、ウクライナ正教会の総本山でもある。
988年、時のキエフ大公国を治めたウラジーミル1世による、ルーシ人の集団洗礼がロシア正教会の起点とされている。この点については様々な説があり、論争になっているのだが、仮にそれが正しいとすれば、ここはロシア正教会興りの地、と言うことができるのだろう。
そのキエフ大公国は13世紀に滅亡し、それからのキエフはソ連崩壊、或いは今に至るまで、周辺諸国の支配や影響を受け続けてきたのだが、社のロシア人スタッフが「ロシア人もキエフには一目置いている」と言っていたように、ことロシアにとっては、今のロシアが形作られる上でキエフは無視できない場所であるらしい。そんな宗教的背景がそうさせるのだと思う。
川沿いの門から入り、風景をカメラに収めながら歩いていたのだが、次第に場違いな雰囲気を感じてきた。訪れる人々は皆、入口のところで足を止め、十字を切って中に入っていくのだ。
方や私は物見遊山の観光客である。
だんだんと居たたまれなくなり、早々に立ち去ろうと決めた。
丘の上の方の入口からバスに乗り、地下鉄を乗り継いで、再びポディール地区を訪れた。この頃には青空が見え始めた。この辺りの天気の変化は早い。そしてこの一角に、チェルノブイリ博物館がある。
チェルノブイリの悲劇については理解していたつもりだったが、それでも思わず息を呑んだ。天井には防護服を着たマネキンが吊るされ、さながらホラー映画の様相を呈し、事故に関わった、あるいは亡くなったであろう人々の写真が無数に貼られていた。事故が起きた時間で動きを止めた時計、奇形を起こした仔犬、現場近くから回収されたぬいぐるみ…全てが無表情に、事実を語りかけていた。
「神よ、なぜ見棄て給うたのか」―放射能のマークとロシア正教のイコンが並んでいるのを見れば、そんな怨言が聞こえてくるようでさえあった。
あまりに強烈な趣向に、見る人によっては悪趣味と感じるかもしれないし、嫌悪感を覚えるかもしれない。しかし私にとっては、悲劇を悲劇として語り継ぐものとして、その強烈さに心が揺さぶられたし、一方で演出は所詮演出、事実は数段凄惨だったに違いないとも思えた。
更に入口付近には、地名を記した道路標識のレプリカがいくつも吊るされていた。帰り際にそれを反対から見ると、白と黒が反転し、赤で斜線が入れられているのだ。
これらは多分、今はもう立ち入ることができない街なのだろう。そしてそれは、もはや日本にとっても他人事ではない。
博物館の一角に、ウクライナ語と日本語で書かれたメッセージが掲げられていた。内容を見るに、日本人へ宛てた励ましのメッセージのようだ。
『絆』−掛け声ばかりが甲高く響く、実を伴わないスローガンに聞こえ、あまり好きな言葉ではない。しかしこの遠い東欧の地で、同じような苦難を強いられながら、ともすれば見も知らぬ遠くの島国を案じる人々がいる。それは確かな『絆』なのだと思う。
宿に戻って大きな荷物を回収し、チェックアウトして空港に向かった。ハルキフスカ駅からバスに乗るつもりだったが、駅周辺にはバス乗り場と思しきものが何もなかった。どこからバスが出るのだろう…と辺りを探していると、またまたタクシーの運転手に声をかけられ、結局相乗りで空港に向かうことになった。
チェックイン、保安検査、パスポートコントロールも難なくパスし、ハンガリー・ブダペスト行きのVV203便に乗り込んだ。ここの移動が最大の不安だった。ただでさえ限られた時間に見たい場所を詰め込んだ弾丸旅行で、1日1本しかないこの便が飛ばなければ、ここから先の計画の全てが狂ってしまうからだった。飛行機に乗り込み、ドアが閉まるまで油断はできなかった。全ての行程が終わり、機材が滑走路に向けて動き出したところで、ようやくほっと胸を撫で下ろすことができた。
ドニプロエアによる運航で、機材はエンブラエルのERJ-190だった。他にもATR、サーブ、ボンバルディア、スホーイ…ロシアにいる間に色々な機材に乗ったものだ。
天候は終始良好で、地表が良く見えた。そしてカルパチア山脈を越えると、そこはハンガリーの地である。
ハンガリー生まれの作曲家の名を冠した、ブダペストのリスト・フェレンツ空港には予定より15分ほど早く到着し、早々にパスポートコントロールも通り抜け、ガイドブックに従って最寄りの地下鉄駅行きのバスに乗った。運転手から切符を買い、バスの車内にいくつかある改札機で日付を刻印する。これを忘れて検札に見咎められると、有無を言わさず罰金を取られるらしい。
地下鉄M3(北南線)のケーバーニャ・キシュペシュト駅までは20分ほどで到着した。ここも切符を買って自分で改札するのだが、近くの券売機は動いておらず、切符売場を見つけるのに少し時間がかかった。ようやくホームに降りると、やって来たのはロシアでお馴染みの車両で、共産圏の匂いを感じた。
市街中心部に近いカールヴィン広場駅で降り、そこから自由橋を渡ったドナウ川の対岸に、今日の宿ホテル・ゲッレールトがある。アール・ヌーヴォー調の重厚感溢れる高級そうな宿だが、意外と値段は高くなかった。
ホテルのカフェでビールを飲み、少し休憩したあと、ホテル隣のゲッレールトの丘に登った。ゲッレールトとはハンガリーのキリスト教化を進めた伝道師であり、異教の暴徒によって手押し車にはりつけられ、丘の頂上から突き落とされて殉教したことで、その名を残しているという。
丘の頂上からはドナウ川と、その両岸に栄える街並みが良く見えた。ドナウ川を境にして西側にブダとオーブダ、東側にペストという市があり、その3つが合わさってブダペストとなったのである。
しかしこの美しく静かな街も、かつての大戦中に焦土と化し、ブダとペストを結ぶ9つの橋は全て破壊されたという。ブダペスト包囲戦は第二次大戦中に起きた中でも、最も熾烈を極めた戦いの一つとされる。
包囲戦に勝利したソ連軍は、ナチスからの解放を記念して、ここに巨大な女神像を建てた。戦後数十年間の共産主義政権下の時代を経て、今は西側諸国の一員としてEUにも加盟しているこの国で、ソ連が造り出した女神が未だに天にシュロの葉を掲げ、ブダペストの街を見守るかのように立っているのである。
ブダペストは温泉の街でもある。ゲッレールトに宿を取ったのも温泉が併設されているからで、温泉こそがブダペストを訪れた理由どころか、今回の旅の最大の目的と言っても過言ではなかった。
丘を降りて、早速温泉を探した。まず最も近いルダシュ温泉に行ってみたが、"Bath open as usual"とは書いてあるものの、どういうわけかクローズしていた。
次に近いのはどこかと思って地図を探すと、ここから少し北の方にキラーイ温泉があった。少し距離がありそうだったので、かつては装飾的な偉容を誇り、今はシンプルな装いで再建されたエルジェーベト橋でペストに渡り、地下鉄で再びブダ側、バッチャーニ広場駅に移動した。
駅からの道で少し迷ったが、どうにか辿り着くことができて、きちんと営業していた。料金を支払うと、ICチップが入ったリストバンドを渡される。浴場の入口には改札機があって、リストバンドをかざすとゲートが開く。その先には更衣室があって、案内されたブースで水着に着替え、更にその先でシャワーを浴びてから入浴する。
オスマン朝占領下に建てられた、トルコ式の浴場であるという。ほんのりと漂う硫黄の香りは温泉そのもので、日本の温泉を懐かしく感じた。暑い盛りに、少しぬるめの湯が心地よかった。
身も心もさっぱりして外に出た。食事をしてから宿に帰ろうと思って歩き始めると、ドナウ川沿いに物凄い数の人々が集まっていた。
どうやら何かを待っているようだ。これは何かイベントがあるに違いないと思い、どこかで食事をしようとしていたのをやめて、露店でパプリカのたっぷり乗ったソーセージや、パーリンカという食前酒、そして冷えたビールなどを飲み食いしながら、「そのとき」を待つことにした。
長い夏の日もようやく沈み行き、すっかり空も暗くなった。くさり橋や国会議事堂の建物はライトアップされ、ブダペストとドナウ川の夜に一層の彩りを添えていた。
そして夜9時ジャスト、方々で花火が一斉に上がった。今日は花火大会の日だったのだ。

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