東側からの東往記 (7) - ロシアから東欧へ、烏洪墺捷波5カ国訪問記 -

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20:17発のポーランド・クラクフ行きの列車に乗った。通路にたむろする若者の集団をよけて、切符に書かれた三段寝台の一番下に潜り込んだ。外はまだまだ明るかったが、着替えにも難儀するような高さの寝台で、外の景色を見ることも億劫になり、横になって過ごした。ところが時間が時間なだけに眠気も強くなく、少し寝て起きるを何回か繰り返した。
そんな状態のまま日付が変わり、列車は国境近くのボフミーンに到着した。ここで3時間停車し、ウィーンからやって来る列車を連結してクラクフに向かうことになっていた。
ところがもうひと眠りして、朝5時頃にここはどこだと外を見ると、未だにボフミーンであった。どうやら、ウィーンからの列車が相当遅れているらしい。そのあと少しして、列車が動き出した。だいたい2時間遅れということになる。
ボフミーンから約30分でポーランド最初の駅、ジェブジドビツェに到着した。列車のいない側線が広がる駅の風景は、夜明けだというのにどこか陰鬱で、寂しい空気が漂っていた。
これがポーランドか―その物悲しい雰囲気は、この国に刻まれた苛烈な歴史と、まもなく旅の終わりを迎える私の気分とを同時に体現しているかのようだった。
次はオシフィエンチムに停まる。時刻表通りであれば到着予定は4:54で、あまりに時間が早過ぎたために、この列車で一度クラクフまで行き、オシフィエンチムに引き返すつもりでいた。だが2時間遅れているということは、オシフィエンチムには7時頃到着するはずということになる。これならさして問題あるまいと思い、車掌氏にオシフィエンチムで降りると申し出た。英語を解さない彼に用件を伝えるのは少し苦労したが、最終的にはきっちり意図を理解してもらえ、到着を寝台へ知らせに来てもくれた。
予想通り、7時頃にオシフィエンチムに到着した。列車からはバックパッカーと思しき、大きな荷物を背負った若者が何人か降りた。恐らく目的地は同じであろう。
駅前の観光地図と街路沿いの案内板を頼りに、歩いて30分弱で目的地に辿り着いた。
ここはアウシュヴィッツ。その有名すぎる名が、この町のドイツ語の呼び名でもある。
朝8時の開門にピッタリの時間に着くことができた。予期せぬ列車の遅れが、理想的な行程につながった。
入場自体は無料で、各国語の有料ガイドツアーもある。ただし10時を過ぎるとガイドツアー以外では入場ができなくなる。日本人スタッフもいて、事前にメールでコンタクトを取ったのだが、あいにくこの日は不在とのことだった。英語のガイドツアーに参加しようかとも考えたが、結局は自分のペースで、自分なりに見て歩くことを選んだ。
収容所へは"ARBEIT MACHT FREI"(働けば自由になる)と掲げられた門をくぐる。Bが上下逆さまになっているのは、門を造らされた囚人のせめてもの抵抗、という説がある。真偽は定かでないにせよ、ここで起きた出来事の象徴として、今も逆さまのまま訪問者を迎えている。
所内はレンガ造りの収容棟と木々が整然と立ち並んでいた。ここだけを見れば、アパートや兵舎のようにも思える。だが周囲に頑強に張り巡らされた有刺鉄線が、ここは紛れもなく収容所であったことを示している。そして収容棟の中の生活環境が、劣悪と言う言葉でも表現し切れないものであったことは言うまでもない。
ホロコーストの象徴というべきガス室が残っている。ヨーロッパ各地から集められた被収容者たちは、列車を下ろされるや否や選別にかけられ、労働に適さないと判断された人々はここに連れてこられた。身ぐるみを剥がされ、そして殺虫剤チクロンBのシャワーを浴びたのである。
150万人の人々がここで命を落としたとされているが、正確な総数は分かっていない。多くの人々は、囚人番号すらつけられないまま、ガス室行きを命じられたからだ。
ガス室の隣には焼却炉があって、ガス室の死体をすぐに焼却できる構造になっていた。さもパンを焼くように、流れ作業で死体を処理する様子が目に浮かんだ。
収容棟のすぐ隣で何が行われているか、囚人たちに隠し切れていたとは思えない。同胞が焼かれる煙が、嫌でも目に入ったはずだ。
収容所に到着した人々は荷物を奪われ、眼鏡や松葉杖、義足といったものまで没収された。敷地内では、夥しい数の没収品を見ることができる。また殺害した女性から切り取った、2tにも及ぶという大量の毛髪も展示されていた。そしてこれを絨毯の材料にしていたのだという。
狂気の沙汰、これ以外の言葉が思いつかなかった。
「死のバラック」と呼ばれる11号棟は、入ってすぐのところに簡素なオフィスがあり、そこで被収容者に対する裁判が行われた。その判決次第で、その奥の部屋で懲罰を受けるか、或いは建物の隣の通称「死の壁」で即座に銃殺されるかが決まった。
立ち牢や飢餓牢といった、懲罰に使用された施設も見ることができた。懲罰の方法も多岐に渡っていて、中には「後ろ手で縛って吊るし上げる」「鼻から水を飲ませる」「爪の間に針を刺す」というように、リンチとしか思えないようなことも行われていたという。
いや実際に、いわゆる「いじめ」だったのかもしれない。
ナチスはユダヤ人やスラヴ人に劣等種族のレッテルを貼り付け、第一次大戦で傷ついた民心に取り入った。彼らには何をやっても構わない、そんな雰囲気の中で、壮大かつ壮絶なる「いじめ」が実行された。
醜悪な笑みを浮かべた収監が、囚人たちを足蹴にする様を描いた風刺画が飾られていた。良くあるいじめっ子の言い訳よろしく、彼らもまた「反応を見るのが楽しかった」とでも思っていたのかもしれない。
無料の連絡バスで、ビルケナウ強制収容所跡に足を運んだ。囚人の増加に対応するために建設された収容所で、第二アウシュヴィッツとも呼ばれる。「死の門」をくぐる鉄路が真っ直ぐ伸びる様は有名だ。
被収容者が連行されるのに使用された貨車が、ぽつんと線路に停まっている。人々はこの中に押し込められ、移動の途中で息絶えてしまう人々もいた。生き残ってこの地に辿り着いた人々の運命は、既に書いた通りだ。 ここの収容棟はバラックそのもので、アウシュヴィッツより更に粗末な造りだった。これでポーランドの厳しい冬を耐えられるはずがない。
ここには破壊されたガス室の跡が残っていた。進攻してくるソ連軍を恐れて、収容所側が自ら破壊したものである。しかし全ての痕跡を消滅させることはできず、こうしてかつて起きた事実が後世に語り継がれているのである。
白地に青いダビデの星の、イスラエル国旗を掲げた人々も見かけた。彼らの胸中にあるのは悲しみか、怒りか。静かに資料に見入る彼らの表情からは、何とも読み取れなかった。
ビルケナウの売店で、日本語のパンフレットを買った。
パンフレットには「記憶の場所」という表現が随所に使われている。ここでの出来事を人々の記憶に留め、過ちを二度と繰り返さないために、この場所は存在している、というのだ。
「人類に対する最大の警告の1つ」ともある。決して、ナチスを断罪するための場所ではないのである。当初はその目的もあったらしいが、今ここから発せられているのは、全ての世界に向けられたメッセージに他ならない。
考えてみれば、この悲劇を引き起こし得たのは、何もナチスに限られまい。世界中の全ての人間が加害者、先の例えを使い回せばいじめっ子となる可能性があった。いやむしろ、今も孕み続けている。どの人間も自らの国家、人種、民族の優位を信じ、時に他の人々を見下し、排除しようとするものだ。それを止めろと言っても、もはや止められまい。
それでも、何があろうと絶対に踏み越えてはならない一線がある。全ての人間が理解し得る、一線を越えた結果がここにある。
せめてその「記憶」は、いつまでも受け継がるべきだ。人は忘れる生き物だし、価値観や倫理観といったものさえ、いつ形を変えるか分からないのだから。
朝食を食べず、丸々午前中歩き続けたために、空腹が極限に達していた。食事できるところはあったかなと思いながら駅までの道を歩いていると、ケンタッキーの看板が目に入ってきたので、そこに決めた。旅行中こそ、普段食べ慣れているものが無性に恋しくなることがあるものだ。
手早く食事を済ませ、13:28発のクラクフ行きの普通列車に乗った。4両編成の列車はボックスシートが並び、日本の近郊型列車のような雰囲気だ。ローカル色満点の農村地帯を、列車はコトコトと進んでいった。
最初は1ボックスに1人乗っているかどうかといった程度でガラガラだったが、駅前にビジネスセンターのような施設が建ち並ぶ駅でどっと人が乗ってきて、一気に混雑した。もっともそこは既にクラクフの市内だったので、そこからクラクフ駅までさほど時間はかからなかった。
クラクフは人口約75万、ポーランド第三の規模を誇る都市であるが、詳しくは明日見て歩こうと思う。駅前徒歩30秒の「APARTHOTEL STATION」にチェックインし、近所のスーパーでいろいろな銘柄のビールを何本も買ってきた。ポーランドのビールも美味しく、6缶ほど空けたところでベッドに横になったら、そのまま意識が飛んでいた。

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