東側からの東往記 (8) - ロシアから東欧へ、烏洪墺捷波5カ国訪問記 -

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変な時間に寝たせいで深夜の変な時間に目が覚め、そのまま二度寝して朝を迎えた。朝食を取りにレストランに行く途中でフロントに立ち寄り、ヴィエリチカへのエクスカージョンを申し込んだ。列車と自分の足で行くこともできたが、億劫になった。
10:00頃に迎えがやって来て、バスに乗り込んだ。いくつかのホテルで乗客を拾ったあと、郊外を目指す。
ヴィエリチカはクラクフの南東約15kmにある、人口約19,000の小さな町である。ここに世界有数の歴史と規模を誇る、ヴィエリチカ岩塩坑がある。13世紀に稼働を開始し、1996年まで商業採掘が行われていた。その間、地下300mの深さにまで掘り進められた坑道は、全長300km以上に及ぶと言う。
少し待っていると英語のガイドの女性がやって来て坑内に案内されたが、例えエクスカージョンでなくとも、定期的に催行されるガイド付きツアーで、数十名のグループを組んで見学することになる。道に迷う恐れがあるからであろう。
ガイドの先導で、狭い階段を延々と、地底の世界へと向けて降りて行く。
ようやく観光用の坑道の入口に辿り着くまで、10分ぐらいは階段を降り続けた気がする。そこから採掘の様子を再現したジオラマや、岩塩を彫り込んで造られたという像を見ながら、更に地下深くへと進んでいく。
しばらく歩くと、坑道の壁にびっしりと白い塩の結晶がこびりついている様子が見られた。指につけてなめてみると、いかにもミネラルたっぷりの、良質の塩という味がする。
そして最大のハイライトは、坑内に設けられた礼拝堂である。床、階段、彫刻、レリーフ、祭壇、全てが岩塩でできているのだ。塩坑というより、岩塩でできた教会そのものだ。
更にいくつもの地底湖も見ることができる。水の透明度は相当高いようで、湖面が鏡のように坑内の照明を反射し、綺麗な線対称を描くのだ。これもまた幻想的な光景だった。
こうした歴史、技術、そして景観が評価されて、1978年にはユネスコの世界遺産第一号として登録された。坑内には第一号登録を記念するレリーフがあったが、ここにはヴィエリチカだけでなく、クラクフ歴史地区の名も刻まれていた。クラクフの街もまた、いの一番にノミネートされた12箇所の世界遺産の中の一つなのだ。
更にその翌年の1979年、アウシュヴィッツが「負の遺産」として世界遺産に加わり、クラクフは3つもの世界遺産を同時に抱えることになる。
坑夫のようにエレベーターで地表に上がり、バスに乗ってクラクフに戻ってきた。ホテルで一休みしたあと、改めて旧市街に足を向けた。
旧市街は駅からすぐ近くのところに広がっている。フロリアンスカ門をくぐり、フロリアンスカ通りを少し歩けば旧市街の中心、中央広場である。クラクフは戦災の影響を受けなかったことから、旧市街には古い街並みがそのまま残されている。
しかしこれは運が良かった。第二次大戦はポーランドに甚大な爪痕を残した。ナチス・ドイツとソ連の侵攻でポーランドの名は地図から消え、全国民の6分の1にあたる600万人が死亡したという。ポーランド人はナチスの目の敵にされ、アウシュヴィッツを始めとする強制収容所で命を落とした人々も少なくなかった。首都ワルシャワにおけるナチスへの市民蜂起(ワルシャワ蜂起)は失敗に終わり、報復としてワルシャワの街は徹底的に破壊された。
18世紀には3国分割、19世紀にはロシアへの併合を経験した。20世紀初めに成し遂げた独立も、裏には列強各国の思惑があった。そして戦後にはソ連の影響で共産主義政権が誕生し、民主化までに時間を要した。ポーランドの歴史を改めて紐解き直したことで、これでもかというほど他国に翻弄され、蹂躙されたことが良く分かった。
だから、世界遺産第一号のヨーロッパの街として、ロンドンでもパリでもなく、ウィーンでもプラハでもない、ポーランドのクラクフが選ばれたことは、そんな苦難の歴史を乗り越えてきたからこその結果だったのだと思いたい。
中央広場に行くまでに、フロリアンスカ通りに面したレストランに入り、ウェイトレスにポーランド料理のおすすめはどれかと尋ねると、ジュレックというスープを指さされた。少し酸味があるのは、発酵したライ麦を使っているからだという。これに細かく刻んだソーセージやゆで卵が入っている。ポーランドで仕事をしている知人が「これがポーランドのベストフード」とまで言い切っていた。ベストかどうかまでは判断できないが、確かにさっぱりとして美味しかった。それと一緒に頼んだローストポークがまた物凄いボリュームで、お腹一杯になった。
改めて中央広場に出た。中央広場を彩る代表的な建物は、広場の中央に堂々と軒を構える織物会館、取り壊され時計台だけが残された旧市庁舎、そして茶色い2本の尖塔が聳える聖マリア教会である。様々な露店やカフェが営業していて、みな土曜の昼下がりを思い思いに過ごしているようだった。
広場を通り抜け、古い街並みを見ながら歩く。失礼な表現かもしれないが、何となくくすんだ印象を受けたのだが、それがかえって歴史を感じさせた。もしかしたら、わざとそうしているのかもしれない。後で調べたところでは、700年以上も大事に使われ続けているアパートすらあるという。
旧市街の南の端、ヴィスワ川に面した丘の上にヴァヴェル城はある。14世紀以降、ポーランド王国の王が代々居を構えたのがこの城で、クラクフも王国の首都として栄えた。
クラクフは日本でいうところの奈良、京都のような街ということができると思う。
城内で最も目につくのはヴァヴェル大聖堂である。14世紀、最初はゴシック様式で造られ、そのあとルネッサンス様式やバロック様式が加えられた。後からいろいろなものが付け足されたのは一目瞭然で、様々な色そして形の建物の集合体になっている。
ヴィスワ川の対岸に渡ると、城の全景が良く見えた。大聖堂の尖塔はどこからでも目立つ。円錐屋根を持つ城の建物はリトアニアでも何度か見かけた。国境を接しているだけあって、似通っているところもあるのだろう。
帰りも中央広場を通って宿に戻ると夕方になっていた。今日はいよいよ最後の夜、明日はモスクワへ戻らなければならない。そんな感傷を振り切るように、またビールを買い込んで飲んだ。そしてまたもや、不意にベッドに横になった瞬間に意識が落ちた。

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