東側からの東往記 (6) - ロシアから東欧へ、烏洪墺捷波5カ国訪問記 -

[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ] [ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] [ 8 ] [ 9 ] [Photo]

宿を出て街歩きを始める前に、駅に立ち寄って今日乗る列車の切符を買った。よもや売り切れということはあるまいとは思ったが、念には念をだった。
駅を出てすぐのところにヴァーツラフ広場がある。重厚な外観を誇る国立博物館を背に、聖ヴァーツラフの騎馬像が建つこの場所は、旧市街の方角へ細長く伸びている。広場というよりは大通りと言った方がしっくり来るかもしれない。
1968年、チェコで起こった民主化運動、いわゆるプラハの春を弾圧するため、ワルシャワ条約機構軍がこの広場に戦車を侵入させた。運動は挫折し、その翌年に学生ヤン・パラフが、騎馬像の前で抗議の焼身自殺を遂げた。
これがチェコ事件である。文字通り、改革の芽は踏み躙られた。その無念さは計り知れない。
しかし人々の改革への意志までも潰すことはできず、20年にわたる抑圧の時代を経て、1989年にビロード革命が成就する。そのときに人々が集ったのも、この場所だった。
ヴァーツラフ広場を真っ直ぐ歩くと、昨晩も訪れた旧市街広場に辿り着いた。時刻はちょうど11時、ちょうど天文時計の仕掛け人形が動き出す時間で、それを一目見ようと、多くの人々が時計を見上げていた。
石畳の細い路地を通り抜け、ヴルタヴァ川の河畔に出た。チェスキー・クルムロフで見たあの川が、ボヘミアの地の水を集めてプラハの街を流れているのだ。ヴルダヴァのドイツ語名は「モルダウ」、チェコを代表する作曲家スメタナが郷土を想って、自らの作品の題材とした大河である。そしてすぐに石造りのカレル橋と、対岸のプラハ城の姿が目に入った。
カレル橋の欄干には聖人の石像が建ち並び、橋の上では様々な露天商が道行く観光客を待ち構える。これを渡り切ったあと、すぐに城の方へは向かわず、マラー・ストラナ地区に広がるペトシーン公園のケーブルカーに乗って丘に登った。
丘の上には、一見テレビ塔のような鉄骨組みの展望台がある。塔自体が左右に揺れる中、階段を上っていくのは少し怖かったが、城よりも更に高い展望台の頂上からは、プラハの市街を一望することができた。
眼下には、運良く戦禍をも免れた、赤い屋根の古い建物が並ぶ。願わくば、冬にも訪れてみたい。雪の白と街の赤が、いいコントラストを描くに違いないと思ったからだ。
そのマラー・ストラナからフラッチャニへ至る道沿いに、壁が延々と続いている。これを「飢えの壁」といい、カレル4世が飢えに苦しむ人々を救うため、壁を作るという仕事を与えたのだという。
フラッチャニに入った辺りのレストランで昼食にした。ポークソテーのランチセットと、もちろんビールを頼むのも忘れなかった。この日は少し歩き疲れたり、地図をゆっくり見ようと思うたびにカフェに入り、ビールを飲んだ。チェコのビールは本当に美味しい。
腹ごしらえをしたところで、いよいよプラハ城に足を運んだ。城と言っても一つの建物を指すのではなく、旧王宮と宮殿に囲まれ、聖堂や教会が建ち並ぶ一帯をまとめてプラハ城と呼ぶ。現在もチェコの大統領府が置かれ、名実ともにチェコそしてプラハの中心であり、シンボルであるとも言える。
入場すると、一際高く聳える聖ヴィート大聖堂が目に飛び込んできた。この場所に教会ができたのが930年のことで、カレル4世の時代に現在のような堂々たるゴシック様式の建物への改築が始まった。その後紆余曲折を経て、完成に至ったのは20世紀初頭のことであるという。
威容たる外観に目を引かれる一方で、いくつもの小尖塔は、一つ一つが緻密に造られている。これは大きな時計を構える南塔の頂上に上り、上から見下ろすと良く分かる。正面のファサード同様、この南塔もプラハ城の中で最も目立つ存在の一つだが、これは後からバロックの様式を持ち込み、ゴシックの建築に付け足したものだそうだ。更に、広場を挟んで大聖堂の向かいにある聖イジー教会は、920年に完成したロマネスク様式の建物である。
…と、ガイドブックの解説を参考に書いたが、正直なところ、それぞれの様式の特徴がどうで、歴史的背景はどうということには、あまり興味がない。それよりも、千年の歴史の中で、様々な建築様式が互いに違和感なく調和しあい、現在の姿に至ったということ自体が印象的だった。
プラハ城の近くにある駅から地下鉄に乗り、再び旧市街の方へ戻った。地下鉄の駅の作りや車両は、旧ソ連様式の外面を張り替えたものだとすぐに分かった。プラハに初の地下鉄が開通したのは1978年というから、納得できる。
少し日が傾きかけた街を、火薬門から旧市街広場に向けて歩き、広場に面したボヘミアングラスの専門店で、ガラス製の灰皿を買った。タバコはあまり吸わないが、ガラス細工の土産物としてはグラスよりも灰皿の方がいいかなと、何となく思っただけだ。
列車の時間が近付いてきた。最後にやはりビールを飲もうと思って、プラハで最も古く、かつ有名というビアホール「ウ・フレクー」に入った。伝統的な製法で作られたという黒ビールが人気だが、注文をする必要はない。ジョッキに注がれたビールをいくつもトレーに載せたウェイターが、絶えず店を歩き回っているからだ。ウェイターに声をかけるとビールを置いていき、伝票に数量をつけていくのである。アコーディオンの生演奏が流れ、楽しい雰囲気だった。
昼食も遅めだったし、簡単な食事を…と思ってローストポークを頼んだのだが、これまたクネドリーキとザウアークラフト(キャベツの酢漬け)がどっさり盛られた、ボリュームたっぷりの料理だった。もちろん美味しい料理で、どうしても残すのは憚られ、最後の一切れまでしっかり頂いた。
思いの外食事に時間を使ってしまった。一旦宿に戻って荷物を引き取り、プラハ本駅に辿り着いた頃には、既に列車の出発時間まであと10分になっていた。

[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ] [ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] [ 8 ] [ 9 ] [Photo]


Homepage >> Travel >> 東側からの東往記