東側からの東往記 (5) - ロシアから東欧へ、烏洪墺捷波5カ国訪問記 -

[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ] [ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] [ 8 ] [ 9 ] [Photo]

朝5時に起きると、外はまだ薄暗かった。フロントに鍵を返して、静かに外に出た。
フランツ・ヨーゼフ駅の人影はまばらで、駅の切符売場すら開いていなかった。国際列車の切符を自動券売機で買えるだろうか…とタッチパネルを操作していると、幸い、目的地の名を見つけた。
駅ビルの中のスーパーでパンと飲み物を買い、6:22発のチェスケー・ヴェレニツェ行きに乗り込んだ。5両ほど連結していたが、車内はガラガラで、1つのボックスを占領して悠々と過ごすことができた。
ウィーンの市街地を出たあとは、ひたすら農村地帯を駆け抜けていく。線路も単線となり、日本のローカル線を彷彿とさせる趣きだった。特段何があるわけではないが、流れ行く異郷の景色を漫然と眺める。すると次第に眠気を催してきて、つい船を漕ぐ。ふと目が覚めると別の景色が広がっている。これが楽しいのだ。
オーストリア最後の駅グミュントを出ると、数分でそこはチェコの領内であり、そして終着駅のチェスケー・ヴェレニツェに到着した。ウィーンから約2時間半、国境を示すものは特に何もない。
ここでチェスケー・ブジェヨヴィツェ行きの列車に乗り換える。ここからはチェコ鉄道の車両で、6人掛けのコンパートメントが並んでいた。引き続き、車窓に広がるのはチェコの農村の風景である。
チェスケー・ブジェヨヴィツェには1時間弱で到着した。何本もの側線を擁する大きな駅で、19世紀にヨーロッパ初の鉄道がオーストリアのリンツとの間に開通したことから、交通の要衝として発展したところだ。
ここは後でゆっくり時間を取るとして、そそくさとチェスキー・クルムロフへ向かう列車に乗り換えた。これまたコンパートメントが並ぶ客車だったが、ここから先は非電化で、ディーゼル機関車が牽引していた。車窓もますますローカル色を濃くしていった。
約1時間でチェスキー・クルムロフに到着。自分も含めた、旅行客と思しき乗客が全員ここで降りた。早速街に出る…前に、駅のカフェでビールを頼んだ。チェコと言えば世界有数のビール大国である。ならばビールを味わわなければ始まらない。
ビールを1杯飲み干すと、列車から降りた乗客は全員街に向かってしまったようだった。人気がなくなってがらんとした観光案内所で、大きな荷物を預かってもらい、身軽な格好で駅を出た。市街地までは歩いて20分ほどである。
チェスキー・クルムロフは人口14,000の町である。そんな小さな町が注目を集めるわけは、13世紀に創建されたチェスキー・クルムロフ城を中心とした歴史的な街並みが広がるからだ。街の中心街を囲い込むようにヴルダヴァ川、馴染みのある名前で呼ぶとすればモルダウ川が流れ、色とりどり、形さまざまの民家が立ち並ぶ。そしてそれを見下ろすように、巨大な城が聳えているのだ。城を中心とした街並みを散策するのもいいし、城の頂上に上って市街地を眺め下ろすのもまたいい。
しかしチェスキー・クルムロフが現在の美しさを取り戻したのは、1989年のビロード革命以降のことであるという。第二次大戦後、共産政権の下で荒廃の一途を辿った時代があった。
共産主義の波の中では多くの歴史的遺産が価値を否定され、良くて放置、悪くて破壊された。先のブダペストのように、戦禍に巻き込まれ、壊滅的な被害を受けた場所もあった。
東欧、中欧の国々は、どこも似たような過去を抱えている。不遇の歴史があっての今であることを忘れてはなるまいし、そこに興味を持ったのもまた、ロシアにいてこそだった。
駅のカフェ(先ほどとは違う店)で列車を待つ間にビールを飲んだあと、チェスケー・ブジェヨヴィツェに戻った。ここでプラハ行きの列車に乗り換えるのだが、ガイドブックに地図が載っていたので、少し街を散策してみることにした。
小腹が空いたので、ラノヴァ通り沿いのマックで食事をしたあと、駅から15分ほどで、旧市街の中心であり、街の創設者の名を冠したプシェミスル・オタカル2世広場に出た。この傍らに立つ黒塔には登ることができ、大きい荷物を抱えたままで若干きつかったが、頂上からは旧市街を一望することができた。
列車の発車時間までの時間潰しの間、広場に面した広場でまたまたビールを飲んだ。
ところでビールと言えば、この街はビールの醸造で有名であり、バドワイザーの名の由来でもある。もっともお馴染みのバドワイザーは、この街の醸造所とは無関係の人間がその名にあやかっただけなのだが、商標権を巡る係争にまで発展しているという。本家のチェコ産ビールの方が数倍美味しいことだけは間違いないが。
18:04発のプラハ行きの列車は、混んでいるかと思いきや、各コンパートメントに1人か2人といった程度の乗車率だった。発車するとすぐに検札が来て、何やらチェコ語で話しかけてきたが、意味が分からなかったので気にしないことにした。
途中の駅で同じコンパートメントに1人の乗客が入って来た。特に気にするでもなく、後はプラハに行くだけ…と思っていたのだが、スドムニェジツェ・ウ・ターボラに停まるとその彼が「メンテナンスがある。だから降りないといけない。」と英語で教えてくれた。どうやら線路の工事か、車両の都合かであるらしい。検札に言われたのはこのことだったようだ。それまでプラハまで行く気満々で居座っていたのだから、彼が教えてくれなければただの大馬鹿野郎になるところだった。
そういうわけで、ここからはバスによる代行輸送となった。プラハまでバスなのかな…と思っていたら、ベネショフの駅前で降ろされ、ここからは再び列車で向かうことになった。 かと言って遅れるわけでもなく、スケジュール通りの20:40にプラハ本駅に到着した。
駅から歩いて10分ほどの宿シティ・インにチェックインし、その後外に出かけた。
まずかつての城壁にあった門の一つである火薬塔と、現在も音楽祭などに使用されている市民会館の建物が目に入った。そしてこの火薬塔を通り抜けると、天文時計やフス像、ティーン教会といった名所が建ち並ぶ旧市街広場にすぐ行き着いた。いずれの建物も綺麗にライトアップされ、遅い時間にも関わらず、夜のプラハを楽しむ人々で賑わっていた。
近くのレストランに入り、ビールと軽い食事をと思ってローストポークを頼んだら、クネドリーキ(粗キビから作る蒸しパンのような食べ物)がどっさり盛られて来た。先ほど変な時間にマックに入ってしまったこともあって、最後の方は腹に押し込むような感じになってしまったが、どうにか完食して店を出た。

[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ] [ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] [ 8 ] [ 9 ] [Photo]


Homepage >> Travel >> 東側からの東往記